「いつか来た道」か?

 今、小泉政権の聖域なき構造改革は、たとえば福祉・教育・保健医療・農林業保護・労働者保護などを徹底して切りつめ、また様々な規制を緩めている。それは、世界化する市場の中で競争する企業の要求に応え、税金や規制などの負担を軽くすることを目的としている。そして、こうした企業の経済活動を維持・拡大するためのもう一つの政策の柱が軍事大国化だ。


 日本は80年代後半から、円高等を乗り越えるため、それまで消極的だった多国籍企業化を押し進めた。海外の進出先では、低賃金や緩い環境規制、労働組合や住民運動を相手国の軍隊や警察などが力ずくで弾圧してくれるなど、相手国政権と組んで日本に有利な条件を出させている。(こうした弾圧などで家を破壊され家族を失った当事者から見ればすでに戦争は起きている。)
 そして、90年代に入り財界からも、日本に有利な政策を相手国が取り続け、たとえその国が「混乱」しても鎮圧して元通り経済活動が自由にできるようにするため、日本の軍事的なプレゼンスを強化することが声高に指摘されるようになった。その一つの結果が99年に成立した日米新ガイドライン体制である。
 しかし、上記の目的を達成するためには、日本が自前で軍隊を出動できる体制にしないと中途半端。そこで、小泉政権によって登場してきているのが、軍事大国化の第二段階に向けた集団的自衛権の容認や憲法改正論である。
 さて第二次大戦まで戦争は、大国が小国を囲い込んで原料・市場を独占するためであり、その形態は大国同士の植民地の奪い合いだった。しかし近年の戦争は、基本的には巨大資本が世界のいたるところで自由に活動できるようにすることに端を発している。したがって戦争の形態も、経済・軍事力を持つ大国の同盟が、その巨大資本による支配から脱しようとする小国や地域を一方的につぶす形をとる。
 このように戦争当事者同士が非対称的であるため、大国のほうは、国民を統制し強制的に戦争に総動員する必要がない。アメリカは再三にわたり戦争を起こし続けているが、同時に国内的には「民主主義」が謳歌されている。
 現代においては、戦争を起こす大国の国民が、全体的には民主主義も蹂躙されず、ほとんどの人が今と変わらぬ生活をする中で、戦争が行われる。新たな軍事大国化は、「いつか来た道」から連想されるような国家総動員体制や天皇による統制や民主主義の破壊という分かりやすい格好では登場しないことを考えておくべきではないか。
 私たちが知らなくても違う立場から見れば「戦争」ということは数多く起こっている。そして、身近なところで特別な変化が起こらない中で本格的な戦争が行われてしまう。私たちがどのような視座で今をとらえ、平和な世界を創り出していくかが、今こそ、問われているように思う。

(この原稿をほとんど書き終えた時に米テロ事件が起きた。アメリカ経済とそれを支える軍事という巨大な力による一元的な支配への対立が、非対称的であるがゆえに、このような悲惨な形で噴出したようだ。これを機に日本の軍事大国の新段階への加速も予想されるが、むしろめざすべきは、力による支配やその結果として一部の人にだけもたらされる「豊かさ」という「古い」欲求そのものから一歩踏み出すことであろう。今こそ、戦争・力による支配のない世界へ。)
    (相原太郎/愛知聖ルカセンター主事)

 

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