ルツ館の婦人宣教師たち  
                        ・・・・・・明治から大正へ・・・・・・
                                   ヨハネ 小林 史郎    
  

 カナダ聖公会婦人伝道補助会(W・A)から派遣された婦人宣教師の2、3の方々について述べてみます。
 1891年(明治25年)の宣教開始以来明治40年ごろまでの約15年間の受洗者名簿が教会に残されています。約130名ほどの名簿をみて、気がつくことを上げてみます。一つは家族単位の受洗が多いことです。12家族で50名を超えています。従って幼児、あるいは年少時の洗礼と考えられる人が多くいます。もう一つは、それと関連して男性受聖餐者の人数が女性聖餐者の2倍ほどと推定されることです。

 さて、1907年(明治40年)4月からの、ウォラー師のご一家第2回帰国中、ケネディ司祭が代りに牧会されました。翌年1908年(明治41年)10月ケネディ師も休暇帰国。ウォラー師は入れ違いに日本に戻り、上田聖公会牧師として上田に移られます。

 1901年(明治34年)から2度目の長野でウォラー師を助けていた水野功師は司祭按手を受け、1906年(明治39年)上田聖公会の牧師となっていました。水野司祭はウォラー司祭と交代にケネディ師の後をうけて、3度目の長野に戻られたのです。

 その水野司祭が1909年(明治42年)、約2年半ぶりの長野救主教会(現行の教会名「長野聖救主教会」となったのは明治45年)について、信越教役者会に出した報告の中で会衆の変化に驚いています。「前回私が在職したころまでは、会衆は男性が多く女性は少数であったのが、現在は女性が多くて、男性が少ない。たとえば2年前の1月20日の主日礼拝の会衆は男性30人、女性10人であったのが、この1月18日の主日は男性13名、女性が18名である。」

 このような変化について、水野師は「これは確かに女の教役者の多く加わりたるのと、その人々の働きの宜しきことに依ること明らかなり。」としています。

 1895年(明治28年)からの医療婦人宣教師Ms・スミスによる慈恵医館などの医療伝道活動が始まりました。そして病院建設が必要であるとの彼女の懸命なアッピールを受けたW・Aの熱意で1902年(明治35年)に病院建設は完成しました。しかしMs・スミスが健康の悪化によって明治33年に帰国してしまい、その後任者を得られなかったことや、日本における医療の進展などを踏まえて、すでにその前年、W・Aは長野での医療伝道から、女性への伝道に重点を移す決定をしていたのでした。

 そして、トロントのトリニティ神学校の卒業生のMs・エセル・スペンサーが選ばれてきました。彼女は
1905年(明治38年)10月に来日し、松本の聖マリヤ館を経て、明治41年9月には、長野に来てました。そして、同月、協力者として到着したミセス・ギボンズ(この方については詳細不明)と後述の田中婦人伝道師と共に、ウオーラー司祭が借り受け、その後ケネディ司祭もおそらく住み、その帰国で空いた旧病院建物、W・Aハウスに住みました。そしてこの建物は婦人教育施設としてルツ館と名付けられたのです。

 こうして明治41年からMs・スペンサー、Ms・ギボンズという2人の宣教師と当時の婦人伝道師田中つね子姉(彼女は大阪府出身で、年少でMs・スミスとともに長野に来て、後ロスアンゼルスの山崎節司祭夫人となる)が主に女性を対象とした伝道活動をしたのです。ちなみに男性の伝道師は白石菊美姉の祖父の福原真士昴が在職されていました。

 明治41年の秋には、城山公園を中心とした会場で、1府10県共進会(博覧会)が開かれました。これを記念し、市内キリスト教4派が合同で間口4間(約7m)奥行き6間半(約12m)というテントを張って、伝道を行っていましたが、長野へ来たばかりの2人の婦人宣教師も早速それに参加しています。

 「定期的に信徒の家庭訪問をし、日曜日の午前9時と午後3時には看護婦と女学校の生徒に堅信準備のためのクラスを開き、さらに午後1時からはマタイ福音書の講義をし、水曜日の3時からは求道者のための集会を開いている。ミセス・ギボンズは師範学校と中学の生徒に英語聖書の講義をして」と水野司祭は記しています。このお2人のカナダに書き送った生き生きとした叙述の手紙は、残念ながら割愛します。

 さらには長野の伝道地の稲荷山の講義所には、豊橋から転任してきたMs・アーチャー(ディーコネス(女性執事)アーチャー)もいました。この4人の女性教役者は互いに協同しながら、盛んに伝道にあたりました。たとえば信濃毎日新聞明治42年7月21日掲載の記事に野沢温泉の基督教と題して、「去る3月よりアーチヤー、ギボンの両女史毎月15日に出張して真湯温泉翠明館において熱心に布教中なるが、信徒も漸次増加の見込み:」とあります。

 このようにして女性伝道師を私た
ちの教会は初めて迎えたのです。しかも彼女らは大学卒の、神学的な素養のある、女性としての自覚のある高学歴の方々でした。

彼女らは明治期の家長制にどっぷりと浸かっている男性信徒の女性観、結婚観を容赦なく批判したようです。当然、彼らとの摩擦、衝突はありましたが、ともすれば家長の回心による一家の入信という形から、女性宣教者の直接的な働きかけで、個としての主体的な決断による女性信徒が著しく増加していったのではないかと思われます。

 そして1910年代からの大正期には、女性信徒が教会委員に選出され、婦人会は独自の新たな活動を求めていくようになります。

 こう考えると、ルツ館の婦人宣教師たちは、私たちの教会に一つの大きな転換をもたらした人達でした。

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