
世の光 No. 60 (2000.07.30.発行)
主な内容
- 「主なる神は土のちりで、人を造り・・・」 (司祭 箭野真理)
- 私たちの教会で奉仕された婦人宣教師たち (小林史郎)
- 証し (南沢早苗)
- よろこびを伝える、こどもの礼拝 (日曜学校・どんぐりの部屋担当)
- 安らかな憩いを・・新井操婦人伝道師を偲んで・・(白石菊美)
- 今、学校で (鈴木 泉)
- ナァージャの村からのメッセージ (水崎よし子)
「今、学校で」
キャサリン 鈴木 泉難しい話はできないので、私が普段感じていることをお話することにしました。私が感じていることなので、すべての学校・教師にあてはまるとは思いません。こんな風に感じている教師もいるんだなあ程度に思っていただけたら…と思います。
〈最近の小学校〉
「小学校」と言っても、地域や規模によってかなり違うように思います。しかし共通して言えることは、行事が多く忙しいということかもしれません。行事があることによってクラスがまとまっていくので、ほんとうに必要と思われる行事だけにすればいいのに…と思います。そうすれば、子どもも教師ももっと余裕を もって生活していけるのではないかと思います。〈最近の子どもたち〉
最近の子どもは……とひとまとめにすることがあります。もちろん「傾向」として言えることはたくさんあると思うのですが、大人だっていろいろな人がいるのだから子どもだっていろいろです。教師に言われなくてもしっかりできる子、言われたことはきっちりできる子、言われてもなかなかできない子…。友だちのふわふわの種が枯れたら困るとつぶやきながら放課後お水をあげている子、クラスで飼っているインコがなかなか言葉を話さないのでもっと話しかけてくださいと係からのお願いでみんなに伝える子…かわいらしい子もたくさんいます。マスコミがちょっと騒ぎすぎなのかもしれないと思います。〈教師と子ども〉
昨年の今頃は大変でしたが今年は持ち上がりだったので楽させてもらっています。やはり一年間のつみ上げは大切でした。今では私が言いたいことを子どもたちは分かってくれます。私もだいぶ子どもたちが分かってきたので、何をするにもある程 度予想もできます。一人ひとりをもっと見なくては…と何かあるたびに思います。そして、もっともっと一対一の関係をしっかりしたものにしたいと思っています。親とうまくいかなくても子どもとうまくいけば、親の見方も変化するかもしれないと思います。〈教師と保護者〉
これは思っている以上に難しいものです。授業参観やその後の懇談会だけではなかなか関係は作られていきません。「子どものために」やっていること、考えていることは同じなのに、何故かズレが生じてきます。でも、できるだけコミュニケーションをとるようにすれば、お互いの考えも分かり、意識が変わるようです。思い切って話してみることも必要です。学級通信もその手段の一つかもしれないと思います。困っていることだけでなく、いいことを知らせていくといい関係もできるような気がします。 ふわふわの種とは…総合的な学習で取り組んでいる「綿」のこと。名前を教えなかったら、子どもたちがいつのまにかこう呼んでいました。名前が分かった今も子どもたちは綿とは呼びません。何故かなあ?不思議です。
私たちの教会で奉仕された婦人宣教師たち
ヨハネ 小林史郎
わたしたちは去る六月の最終主日に代祷の中でカナダ聖公会からの婦人宣教師ミス・フォステルの逝去日を記念しました。ウォーラー師が1892(明治25)年、長野での伝道を開始して以来、ミス・シェパードが1972(昭和47年)帰国されるまでの約80年間に、私たちの教会は多くの婦人宣教師を迎えました。長野でのご奉仕の年月に長短はありますが、いずれもその時々の私ども信徒に深い影響を与えていかれました。
カナダは1763年以来英国の植民地でした。そして1867年にようやく英 連邦の一国となり国家の形をとったのです。ですからそれまでも、それからもカナダ聖公会は英国国教会の伝道団体に頼ってカナダ国内外の伝道を行っていました。1883年カナダ聖公会は自分たちで国内外の伝道を行う内外伝道教会を作り、1890年カナダ聖公会として初めてウォーラー司祭を日本に派遣したのでした。1895(明治28)年長野に来られた最初の婦人宣教師ミス・ジェニー・スミスもカナダ聖公会が日本に派遣した最初の婦入宣教師だったのです。カナダ聖公会の婦人たちは、各教会、各地域にあった婦人伝道教会を全国的に組織し、カナダ婦人伝道補助会(W.A.)を1885年結成しました。そして前述のカナダ聖公会内外伝道教会のメンバーとなり、補助会という名前から想像される以上の積極的な活動を展開しました。年少者への伝道、海外への婦人宣教師の派遣、宣教師の子ども達の教育への援助など、使徒言行録第6章36節以下に記されているドルカスの働きに因んだ「ドルカス事業」をおこないました。
ミス・パターソンはそのカナダ聖公会W.A.運営委員会委員でドルカス事業の幹事でした。彼女は退職し、1894(明治27)年自費宣教師として来日。ケネディ司祭とともに松本に住み、自分の財産をなげうって、松本に聖マリア館を建設運営しました。彼女は松本に行く準備期間をこの長野で過ごしました。
ミス・スミスは学校教師でしたが、海外医療伝道を志して、オンタリオ・ジェネラルで看護課程を終えました。1893(明治25)年、日本に派遣され、神戸で診療所と看護学校を開き成功。その後1896(明治28)年カナダ聖公会の伝道区域となっている長野に看護学校生徒とともに移動しました。彼女が教頭となって開いた問御所の慈恵医館(無料病院)付属の長野看護婦学校生徒と彼女の教え子たちの大きな働きによって、長野聖救主教会の教勢は大いに増しました。1900(明治33)年健康をそこない、帰国しましたが、帰任することができませんでした。
ミス・ギボンズのような方もいます。彼女は1907年9月に長野に赴任され、その頃はまだ珍しいピアノを持参され、女子青年たちへの伝道に努力されました。しかし健康が許さず、翌年1908年帰国されました。ミス・エセル・スペンサーは、トロントのT・カレッジ卒業生でしたが1905(明治38)年来日松本聖マリア館で奉仕されて後1907(明治40)年に長野に赴任。病院として建築され、転用されてウォーラー司祭の住居で留守宅となっていたミッション・ハウスを婦人教育施設「ルツ館」と名付けて、ミス・ギボンズとともにそこに住み、1901年まで奉仕されました。
私たちに親しいミス・マリー・フォステルは英国ロンドンで生まれ、1912年13歳の時、予定していたタイタニック号に乗船せず、一家は無事カナダアルバータ州アルバータに移住しました。秘書養成学校を卒業後、母教会アルバータ聖ステパノ教会婦人会の支援でトロントにある婦人宣教師養成学校に進みました。1927(昭和2)年に来日、太平洋戦争中はエジプト駐在英国大使館に勤務、1947(昭和22)年再来日、以後1962(昭和37)年退職するまで、約40年間在日、太平洋戦争前後合わせてその最後の17年問を私たちと共に過ごされました。長年聖路加病院で看護婦であった妹エラさんと故郷イギリスを旅行中、事故で亡くなられたのは1974(昭和49)年7月1日でした。また大正昭和にかけて14年聞働かれたミス・メーカム、ミス・アーチャー、ミス・ベリー、ミス・クレンチなどについても、次の機会に、彼らが故国カナダに書き送った手紙などで、さらに補足したいと思います。

Yo no Hikari (The Light of the World) No. 60, dated July 30, 2000
The Main Contents:
- "In School Today" by Catherine Izumi Suzuki
- "Woman Missionaries Who Served at Our Church" by John Shiro Kobayasi