
世の光 No. 61 (2001.02.04.発行)
主な内容
- 「主に向かって」 (司祭 箭野真理)
- ルツ館の婦人宣教師たち〜明治から大正へ〜 (小林史郎)
- 日曜学校に関心を (堀越善晴)
- 老い(野沢操)
- 讃美するよろこび、みまもられて
- チャレンジキャンプ9&中学生になったこどもたち(日曜学校・どんぐりの部屋担当)
- 「やすらぎの家」のこと(松村真理子)
- 教区研修会 (住田篤穂)
- フィリピンキャンプに参加して (箭野裕子)
- 山も苦笑い(安藤忠)
ルツ館の婦人宣教師たち
〜明治から大正へ〜ヨハネ 小林史郎
前回に続いて、カナダ聖公会婦人伝道補助会(W・A)から派遣された婦人宣教師の2・3の方々についてさらに述べてみます。
1891年(明治25年)の宣教開始以来明治40年ごろまでの約15年間の受洗者名簿が教会に残されています。約130名ほどの名簿をみて、気がつくことを上げてみます。一つは家族単位の受洗が多いことです。12家族で50名を超えています。従って幼児、あるいは年少時の洗礼と考えられる人が多くいます。もう一つは、それと関連して男性受聖餐者の人数が女性聖餐者の2倍ほどと推定されることです。
さて、1907年(明治40年)4月からの、ウォラー師のご一家の第2回帰国中、ケネディ司祭が代りに牧会されました。翌年1908年(明治41年11月ケネディ師も休暇帰国。ウォラー師は入れ違いに日本に戻り、上田聖公会牧師として上田に移られます。
1901年(明治34年)から2度目の長野でウォラー師を助けていた水野功師は司祭按手を受け、1906年(明治39年)上田聖公会の牧師となっていました。水野司祭はウォラー司祭と交代にケネディ師の後をうけて、3度目の長野に戻られたのです。
その水野司祭が1909年(明治42年)、約2年半ぶりの長野救主教会(現行の教会名「長野聖救主教会」となったのは明治45年)について、信越教役者会に出した報告の中で会衆の変化に驚いています。「前回私が在職したころまでは、会衆は男性が多く女性は少数であったのが、現在は女性が多くて、男性が少ない。たとえば2年前の1月20日の主日礼拝の会衆は男性30人、女性10人であったのが、この1月18日の主日は男性13名、女性が18名である。」
このような変化について、水野師は「これは確かに女の教役者の多く加わりたるのと、その人々の働きの宜しきことに依ること明らかなり。」としています。
1895年(明治28年)からの医療婦人宣教師Msスミスによる慈恵医館などの医療伝道活動が始まりました。そして病院建設が必要であるとの彼女の懸命なアッピールを受けたW・Aの熱意で1902年(明治35年)に病院建設は完成しました。しかしMsスミスが健康の悪化によって明治33年に帰国してしまい、その後任者を得られなかったことや、日本における医療の進展などを踏まえて、すでにその前年、W・Aは長野での医療伝道から、女性への伝道に重点を移す決定をしていたのでした。
そして、トロントのトリニティ神学校の卒業生のMsエセル・スペンサーが選ばれてきました。彼女は1905年(明治38年)10月に来日し、松本の聖マリヤ館を経て、明治41年9月には、長野に来てました。そして、同月、協力者として到着したミセス・ギボンズ(この方については詳細不明)と後述の田中婦人伝道師と共に、ウォーラー司祭が借り受け、その後ケネディ司祭もおそらく住み、その帰国で空いた旧病院建物、W・Aハウスに住みました。そしてこの建物は婦人教育施設としてルツ館と名付けられたのです。
こうして明治41年からMsスペンサー、Msギボンズという二人の宣教師と当時の婦人伝道師田中つね子姉(彼女は大阪府出身で、年少でMsスミスとともに長野に来て、後ロスアンゼルスの山崎節司祭夫人となる)が主に女性を対象とした伝道活動をしたのです。ちなみに男性の伝道師は白石菊美姉の祖父の福原真吉師が在職されていました。 明治41年の秋には、城山公園を中心とした会場で、一府十県共進会(博覧会)が開かれました。これを記念し、市内キリスト教4派が合同で間口4間(約7m)奥行き6間半(約12m)というテントを張って、伝道を行っていましたが、長野へ来たばかりの二人の婦人宣教師も早速それに参加しています。
「定期的に信徒の家庭訪問をし、日曜日の午前9時と午後3時には看護婦と女学校の生徒に堅信準備のためのクラスを開き、さらに午後1時からはマタイ福音書の講義をし、水曜日の3時からは求道者のための集会を開いている。ミセス・ギボンズは師範学校と中学の生徒に英語聖書の講義をして」と水野司祭は記しています。このお二人のカナダに書き送った生き生きとした叙述の手紙は、残念ながら割愛します。
さらには長野の伝道地の稲荷山の講義所には、豊橋から転任してきたMsアーチャー(ディーコネス(女性執事)アーチャー)もいました。この4人の女性教役者は互いに協同しながら、盛んに伝道にあたりました。たとえば信濃毎日新聞明治42年7月21日掲載の記事に野沢温泉の基督教と題して、「去る3月よりアーチヤー、ギボンの両女史毎月15日に出張して真湯温泉翠明館において熱心に布教中なるが、信徒も漸次増加の見込み…」とあります。 このようにして女性伝道師を私たちの教会は初めて迎えたのです。しかも彼女らは大学卒の、神学的な素養のある、女性としての自覚のある高学歴の方々でした。
彼女らは明治期の家長制にどっぷりと浸かっている男性信徒の女性観、結婚観を容赦なく批判したようです。当然、彼らとの摩擦、衝突はありましたが、ともすれば家長の回心による一家の入信という形から、女性宣教者の直接的な働きかけで、個としての主体的な決断による女性信徒が著しく増加していったのではないかと思われます。 そして1910年代からの大正期には、女性信徒が教会委員に選出され、婦人会は独自の新たな活動を求めていくようになります。
こう考えると、ルツ館の婦人宣教師たちは、私たちの教会に一つの大きな転換をもたらした人達でした。
「やすらぎの家」のこと
ドルカス 松村 真理子
「ねえ、悪いけど来週甲府に来ることができる?」めずらしく母からお呼びがかかつた。
当時年長だった恵を幼稚園に送った足で甲府に向った。向った先は実家ではなく、ボランティアセンターの会議室。そこでは「サラの会」の会合が開かれていた。
昨年11月、レンガの聖堂講演会に私の母を呼んでいただいた。母は自宅で「やすらぎの家」というデイサービスを行っている。
6年前のある時から実家は少しずつ変わっていった。部屋をしきっていた襖がなくなる。敷居の段差が気にならなくなる。玄関の靴ぬぎのスペースが広くなり、足が自然に運ぶ。(そうか歩幅に合わせて途中に段をつけたんだ…)食器棚の食器類も半端な物から機能的なものに種類も数も変わった。そちこちのペンキが塗り直され、しぶかった引き戸の具合も軽くなる。そして塀には母の手作りの「やすらぎの家」の看板。私の育った家は「やすらぎの家」に変わっていった。
初めに書いた「サラの会」、この会の中で「やすらぎの家」のイメージの大枠が作られていったと聞いている。今も「サラの会」のメンバーは「やすらぎの家」を支えて下さっている。この時の集りは「やすらぎの家」が形を取り始める大切な集りだったらしい。老いを考えてきた人たちが、自らの老いも見詰める中で、自らの手で夢見た場所を作りたいという思いが足踏みをしていた。母の志とは言え、現在住んで暮らしている住宅を提供してもらって良いのか、一人暮しとは言え、子供達の気持ちはどうなのか、個人の生活は…。
と改めて、母の志が問われていた場面に私は呼ばれていたのだった。それから2年、「やすらぎの家」はオープンした。以来土日とお盆とお正月を除くほとんど毎日お年寄りや、これまた同じ位お年寄りのボランティアや、実習の学生さん達など様々な方が入れかわり立ちかわり通ってみえる。私が生まれ育ち、家族との大事な思い出がぎっしり詰まったかけがえのない家が、縁あって同じ地域に暮らす方々にとっても大切な場所となっていくことになろうとは思いもしなかった。家は家でしかないけど、そこに誰が集うのかで、見事に様変わりをした。
「やすらぎの家」に集ってくる方々とその中で自身が年を重ねる母を見ていて思う。同じ時代を生きたからこそ共有できる思いがある。そういう仲問と一所に過す時のなんと皆イキイキとしていることか。若いから、家族だからできることもあるけれど、それだけではできないこともたくさんある。そんなことを思う。母ほどものごとを達観できない私は結構いろんなことに思い惑う。惑いつばなし。そんな時、「真理ちゃん、何も心配すること はないの。神様は必要な物を必要な時に必ずそなえて下さるから…」母の高らかな笑い声が耳の底に響きわたる。ああ、こんな風に年を取れたら良いなあ…最近そんなことを考え ている。
フィリピンキャンプに参加して
アグネス 箭野 裕子7月27日私は成田空港からフィリピンに出発しました。飛行機に乗っている時、ちょうど台風にひっかかってしまい大揺れ状態で、無事にフィリピンに行けるのかどうか心配でした。
フィリピンに着き、ちょっとしたトラブルがあったりで、ホテルに着いたときはどっと疲れが出てしまいました。メンバーの中に5年前に同じフイリピンキャンプに参加した人がいて、フィリピンでの過ごし方をいろいろと教えてもらい、とても役に立ちました。
私は中学2年の夏にアメリカのワシントン州に1ヶ月ちかくホームスティしました。まだ中学生の私は英語力が全然なく、どうやってコミュニケーションをとっていいか分かりませんでした。それなりに楽しむことはできましたが英語に対する恐怖心が生まれてしまい、それ以来英語がキライになってしまいました。ですからフィリピンに行くことには凄く抵抗がありました。やはり最初は戸惑いがあって、あまり話をしなかったのですが、山に植林に入り、サイタンのGFSメンバーと、バギオのイースタースクールの子供たちと川に遊びに行った時に、皆の心が一つになった感じがしました。それから私は英語が話せなくても身振り手振りだけで、コミュニケーションが取れることを知りました。国や言葉が違っても心が通じ合うことが出来るんだと思いました。たった10日問でしたが、その10日聞のお陰で国の違うもう一つの家族が出来た気がしました。
私しか知らない10日間の思い出を数枚の紙では語りきれず、うまく伝えることができません。次の機会に行ってみて下さい。伝えきれない私の気持ちを分かっていただけると思います。
たった一つ問題なのは、植林作業の道具が足りないことです。もう少し道具があればもっとたくさんの木を植えることが出来たのにと残念に思います。(GFS新聞一一七号より)

Yo no Hikari (The Light of the World) No. 61, dated February 4, 2001
The Main Contents:
- "Participating in the Summer Camp in the Philippines" by Agnes Yuko Yano
- "The House of Relaxation" by Dorcas Mariko Matsumura
- "The Woman Missionaries at Ruth's Hall" by John Shiro Kobayasi