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序 旧制高等学校謳歌
私の青春は暗闇の中で目覚めた。1931年(昭和6)満州事変、「非常時」の呼び声の中で日本は15年戦争の泥沼に踏み込み、1937年(昭和12)日中戦争、軍部の独裁がすすむなか、1941年(昭和16)、私が旧制中学5年の冬に太平洋戦争に突入。高校受験のど真ん中で、自分の位置づけに戸惑いながらも、敷かれた道を前に進むしかない。1942年(昭和17)、私が熊本の旧制第五高等学校に入学のころには、日本軍は各地の戦場で破れ、敗色が濃く、「一億玉砕」のスローガンは、若者の耳には間もなく戦さの場に出て、そこで無意味に死なねばならぬと響いていた。
だが五高入学は、今までの押し付けられた小、中学校の教育路線を一挙に破り、世間に流通する価値を無視し、軍部の横暴を思う存分こき下ろし、天皇制下の全体主義のナンセンスを腹の底から批判し罵倒する、束の間の、かりそめのパラダイスであった。それは敞衣破帽、厚歯の下駄に黒いマント、朝となく夜と無く、街に野に寮歌を放歌、高吟すると言う、無茶と突飛と馬鹿騒ぎの伝承であったが、外見の自由を謳歌すればするだけ、やがて戦場に死ぬと言う、ドス黒い運命がまたしても顔をもたげてくる。
学校は全寮の自治寮制度である。従来の価値を否定したからには、自ら立たねばならぬ。文学を論じ、哲学の書に読み耽り、徹夜で議論し、運動部では体力の限界に挑戦し、それでも足りず街に出ては寮歌を歌い乱舞する。阿蘇に登る道で、観光バスを取り囲んで歌い、バスの屋根で踊って天井をぶち抜き、損害賠償を求められ空の財布からカンパをして、実社会の風に当ったこともあった。しかし学校は徹底して学生を守った。それは旧制高校の伝統でもあったが、明日死ぬ若者への、先生たちのはなむけであったかもしれぬ。良き師、良き友に囲まれて、未熟な若者が自由と自立とを獲得していくこの時代を、50年以上を経た今も、私は謳歌する。若い魂の叫び、余りにも純粋に、余りにも美しく燃えたぎった情熱が、私を学生運動に引き込んだのだと今思っている。SCMの振り返りを書くのなら、私はどうしてもここから始めなければならないのである。もっともっと語りたいが、老いの繰り言はほどほどにしなければならぬ。
1945年代 敗戦後の教会生活
私は1944年、京都帝国大学文学部哲学科美学美術史学科に入学、次の年の4月、陸軍歩兵二等兵として入隊、日本の敗戦で除隊、秋には復学して、京都の復活教会の信徒として戦後の教会生活が始まる。キリスト教会にとっては戦中の弾圧がなくなり、教会への参集者も日に日に多くなる。
しかし何かが違う。私は幼児洗礼で朝鮮聖公会の育ちである。ここは英国教会のSPGに属し、いわゆるハイチャーチの伝統にあり、今から思えばハイチャーチ原理主義のもとに教育されたように思う。指導の神父たちはいずれも独身で、私に小学校の頃から将来は神父になると決めたような言い方をする。ミサはいつも歌ミサで、大祝日は壮厳ミサ、そこで私は香炉持ちからローソク持ち、やがて中学以上になるとサリファー(撤香者)になり、すっかりミサの動きを呑み込んだところでMC(礼拝司会者)になる。これらのややこしい典礼儀式が身に着く頃には、オックスフォード運動などという言葉も覚え、これが聖公会の正統だと叩き込まれて京都に戻ったのである。
その頃京都ではミサは月に一度で、あとの主日は早祷式が中心礼拝であった。これは毎日のミサが当たり前、主日は歌ミサで香の煙りが立ち込めるものと思っていた人間には物足りない。それを当時の佐々木主教に聞いたら、お前が正しい、聖餐式が礼拝の中心であると言う。そこで私は仲間の学生たちと語らって、自分たちで勉強会をしたり、小冊子を発行したり、そのうち歌ミサの講習会をやり、夏には全国の教会に呼び掛けて琵琶湖畔のキャンプ場で礼拝研究会などを開き、年に一度の壮厳ミサを捧げる。
この運動はやがて聖イグナシオ会と名付けられ会員300を数えるようになり、その中には数名の司祭たちもあった。勿論これには佐々木主教の励ましを初め、聖ヨハネ修士会の神父たち、ヴァイエル主教、アーノルド神父、ナザレ修女会のシスターは毎夏、ハイマスのための祭服一式をもっての参加、大久保主教、今井正道主教、もと朝鮮聖公会にいた松阪神父、横地神父たちの後押しなど、多くの人々の理解と賛同があり、指導者として依頼すると、みんな手弁当で一緒に運動を担ってくれる。京都でも高地司祭にはとても世話になった。これは一体なんであったのか。時の流れもあったであろう。しかし思えばこれらは全て信徒の働きであったし、学生の運動であった。1949年に東京神学院が戦後に再開された時に、私は入学したが、イグナシオ会のメンバーから修道院に入るもの、神学院に入るものが次々にあり、やがて聖イグナシオ会は、自ら発展的解散を宣言する。しかし私の中では学生運動への思いとして続いていた。
1950年代 先ず京都の周辺で
1953年4月から、私は京都の聖光教会に伝道師として赴任するが、佐々木主教の管理のもとに、すでに退職していたハイチャーチの村田神父に礼拝の司式を願い、信徒はそれまで見たことも聞いたこともない歌ミサを歌うことになる。聖堂がないので幼稚園の園舎に、主日には香の煙が立ち込める。かっての聖イグナシオ会の残党も駆け付ける。1954年、司祭に叙任。自分に納得できる聖堂が欲しい。隣接地を購入し、聖堂が建ったのが1956年。聖堂聖別の主教司式の壮厳ミサに、新聖堂は撤香の紫煙で充満する。学生たちのグループが生まれ、教会青年の輪が広がり、活動も生き生きしている。聖書研究はその中心を占めていた。私はその頃までに、カナダのミス マックリモンと言う京大で古典語を教えていた宣教師の協力を得て、京大の熊野寮や、学Yの地塩寮で毎週聖書研究会を開いていた。そんな関係で、学Yの藤森主事から頼まれYMCAの協力主事になり、関西の諸大学の聖書研究グループを訪ね、神戸大学の聖研グループとは、そこの長谷部さんと言うドイツ語教師の聖公会員の熱心な協力に支えられて、定期的に関わることになり、学生たちとも親しくなった。そのうち学Yの近畿や、中四国連盟の研修会に出掛けるなど、学Yを通して学生運動との関わりを深めていった。この頃には教会にも大学にもキリスト教に関心を持つ学生が沢山いた。ルーテル教会は学生センターを持っていて、英会話の学生で一杯であった。

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