日本聖公会中部教区・名古屋学生青年センター
日本聖公会学生運動発足とその歩み
関本 肇
日本聖公会学生運動の発足とその歩み

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SCM協力委員会の成立まで

 学生運動の内実は極めて流動的であり断続的でもある。あるいはそれが運動と呼ばれるものの姿かもしれない。学生センターの所在地ではそれぞれにプログラムを作って、自らの思いに従って歩みを展開する。諸教会に散在する学生キリスト者はその教会に於けるエネルギーであり、奉仕と活動の担い手である。多様な学生青年たちは、各大学に属し、また現実の社会にあって生きる。学生運動中央委員会は何ができるのであろうか。その頃の日本に於ける学生運動は、学Yと呼ばれる学生YMCAの活動と、戦後各地に建てられた学生センターを中心とする活動であった。キリスト教関係大学にも夫々の活動があったし、カトリック教会も自らの組織を持って活動していた。

 学生YMCAは戦後に増加した新制大学に、既存の国立大学に建てられていた学Yの寮を拠点に、聖書研究会と言う名で学内のサークルを広げ、日本キリスト教団が、教団としての学生運動の全てを学Yに委嘱すると言う決議もあって、自らを学生運動の本流と自負していた。その主張は、大学における学生主体の超教派的運動ということであったが、その決定的な弱点は、教派の問題は忘れてしまおうとする、無教派性にあり、しかもこれを支援する日本キリスト教団自身も、その教会性を模索しなければならぬと言う複雑な状況にあった。こうした中で多くの都会に発足した教会設立の学生センターは、数は少なくても参加学生の数は多く、学Yの指導者たちには気に入らぬ存在であった。それでも教会一致を標榜してきた世界SCMの理想にならって、先に述べた「教会の生命と使命」研究と言う事で、LMC委員会を作り、学生運動に関わる諸教派、諸団体に広く呼び掛け、研究会を数多く開いたが、どうもすっきりしない。

 そのころ1963年3月第37回LMC委員会に、WCCのレスリーニュービギン氏が来て「宣教と教会一致」と題して話した。彼は見事に要点を突いた。無教派と超教派とは根本的に違う。無教派主義は超教派の名のもとに、教会の本質を見失うものと指摘し、むしろ堂々と教会間の違いを語り合う中で理解と一致が築かれるのだと言う。彼は前に英国でSCM主事の経験もあったから説得力があった。このとき司会の新見定が私に握手して、聖公会SCM万歳と言ったのは、教壇の人間として、それまで学Y理論を支持していた彼が、理解を新たにしたことと感じた。レスリーはまた、SCMの目的は、大学を大学にすること、と定義した。それは大学が本来の大学であることを止めたから、これを回復しなければならぬと言う事である。私も同じ意見である。教会が教会でなくなったから、教会を教会にし、人間が人間であることを失ったから、人間の解放と救いがSCMの使命なのである。

 しかし神学論を繰り返しても前進は無い。それまでに統一SCMを目指して、統一SCM方策研究委員会が1963年頃まであったが、この名前は余りに消極的だと言うので、「研究」を削って、「SCM方策委員会」と改名したのが1963年、私はそれに物足らず、1966年に、統一SCMを具体化するために、「方策」も文字も消すことを提案した。その結果、第35回方策研究委員会において、新しく日本SCM協力委員会への改組が決まり、新規約を承認し、その翌年、1970年に第1回SCM協力委員会が開かれる。私は1968年以降、方策委員会の委員長に選ばれていたが、続けて協力委員会委員長を任された。そして、その後1984年に沖縄教区に移ってからも、1992年、ニューヨークに行くまで、その任に止まることになる。それまでに何度も辞任を申し出たが、大学闘争の後には、相応しい後任がないと言う理由でそんなことになった。しかしまあ、何と言う時間と労力の浪費をしたことであろうか!あるいはこれが、学生キリスト教運動と言うものかもしれない。

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