| ヴィンスゴーリング到着
以上の統一SCMを巡る喧々諤々の間に、日本聖公会自体の学生運動はどうであったか。学生運動中央委員会の発足は、やがて日本聖公会と言う体制組織の中に、「運動」が組み込まれたことの意味を、徐々に明らかにする。しかし先ず運動の担い手の実体である学生が育たねばならない。
中央委員会は、その成立後間もなく、カナダSCMの指導者であったヴィンス・ゴーリング司祭を顧問として招聘する。私の記憶する限り、日本聖公会が自らの具体的な計画と必要のもとに、宣教師の派遣を要請したのは、これが初めてではなかったかと思う。ヴィンスは1962年、文字通りの年末に日本到着、1963年1月1日に京都に着いた。子ども4人の6人家族が山ほどの荷物と一緒にやってきたので、私は聖光教会の学生連中に加勢を頼んで、彼等の入る家の大掃除から、出迎え、荷物の運搬と、意義ある正月を過ごしたことであった。学生たちは、実に気持ち良く、暖かい心くばりをもってこの新しい家族を迎えた。素晴らしい学生 (運動)であった。ヴィンスは日本語の学習から始めなければならず、その上達はまあまあと言うところであったが、日本と教会に馴染むスピードは早かった。ヴィンスの妻のキャサリンは日本生まれの日本育ち、そこらの日本婦人よりも婦徳の磨かれたー読むもの悟れー存在で、それは内助の功などと言うもの以上であったと思う。
聖公会SCMの盛衰
その頃までに、中央委員会のもとに、毎夏、風光明媚の清里清身寮を会場に「夏期スタディカンファレンス(若者たちはスタカンと呼ぶ)」を開いていた。準備のために学生とも相談していたが、これは勿論「スタ準」と呼ばれる。毎年50名前後の出席者があり、時代の底に姦くマグマの活動に呼応して、少しずつ熱気を帯びてきたことが感じられた。1963年には、この「スタ準」を拡大して、学生たちの主体性を引き出し、中核メンバーの育ちを願って、春休みの期間に、第1回「インテンシブコース」が開始された(ご想像の通り「インテン」と呼ばれる)。これらの一つ一つについても言いたい事は山とあるが割愛しなければならぬ。
1965年、ヴィンスの日本語研修が終わったところで、中央委員会は、神学院を卒業した森一郎をヴィンスの協力者として委嘱し、この二人はSCM専従として活躍する。両者ともに京都に住み、私の司牧する聖光教会に所属したので、この後の数年は、何かとSCMについての話し合いを深めるのに好都合であった。
1966年の第7回スタカンは、これまでの3回のインテンと、特に2回のスタ準を通して学生たちが主題を決めた。「『前進』ー私たちの交わりの輪を広げよう」と言うのである。会場は日光かつらぎ館。ここで学生たちは、自らの手で全国組織を作る事を決議する。聖公会SCMの誕生である。
1960年の第一次安保闘争から、日本の中に市民が政治について声を出す風潮が徐々に強くなってきた。「宣戦布告なき戦争」とされ、起点をどこに置くのかさえ不明のベトナム戦争は、1960年代の世界史を転換させた。日本の高度経済成長が始まるが、時代の状況は学生たちに自立を促し、彼等は社会と政治に、また大学と教会に対して批判的に発言し行動し始める。
この頃までに「学生指導者協議会」として、大学教師や教役者の研修会が既に5年間継続して開かれてきたが、これを大学関係者の集会として位置づけ、1967年1月「ファカルティカンファレンス」第1回として比叡山ホテルと京都国際会議場で開催した。比叡山ホテルは、京都教区との関係もあって、種々の便宜を提供してくれたので、1998年1月の「現代キリスト教セミナー」(ファカルティカンファレンス改名)まで、毎年1月初めの開催が慣行となった。
こうして、1月のファカルティカンファレンス、3月のインテンシヴコース、夏のスタディ・カンファレンスと言う3つの流れを巡って、学生運動中央委員会が年に3?4回、そしてヴィンスゴーリングと森一郎のコンビが専従者として全国を巡り歩き、大学のある都市を中心に教区、教会を訪問し、また諸集会を開くなど、SCMとしての基本的な形が生まれ育ってきた。
1965年に米軍による北爆を契機に、京都では「北爆抗議集会」をきっかけに「べ平連」(ベトナムに平和!市民連合)が始まる。これはヴェトナム人の民族運動を潰そうとするアメリカの残虐行為に腹を立てた市民が、個人の立場でなんとかしたいと言う思いで始まった市民運動であるが、多くの学生たちも参加したし、私たちのような年配者も自由に参加できた。それは人間の権利を守り、また市民が言論の自由を確かめる運動としての市民運動であった。このべ平連の全国的な広がりは、時代のエートスの醸成に大きく影響したと思う。
スタカンヘの学生参加は、これまでの50名前後から100名前後に倍増し、それが1967年から1970年夏まで続く。この頃、世界の若者たち、特に学生たちの中から沸き起こってきた熱気をどう呼べばいいのであろう。それは呻きから叫びとなり、やがて大きなうねりとなって世界の隅々にまで及ぶ。私は学生運動中央委員会の発足と同時に、主事として、後には委員長として、こうした時代状況の中で、この学生運動と不即不離の関係の中で過ごすことができたことを喜んでいる。私は若者の感性を通して、世界の現状に聴くことを学んだ。
森一郎が司祭になって専従をやめた後を、津田恵三が専従者としてヴィンスに協力した。彼は愛すべき男と言うだけでなく、私が初めてあった人類の一人であった。彼が午前中のいかなるミーティングにも出席不可能であることを発見するのに時間はかからなかった。夜の種族なのである。ヴィンスと私は彼が昼過ぎに顔を出すまでに、一通りの打ち合わせは済ませた。しかし彼は仁義を重んじる若者であった。彼がSCMのリーダーシップ、もしくはヘゲモニーを取っていた時代に、京都の教区会、大阪で開かれた日本聖公会総会に学生青年たちが、ハンドマイクを手に、非民主的で、旧態依然とした教会の現状に痛烈な批判と攻撃のデモを仕掛けたことがあるが、そうした時にはいつも、彼は私に対して、あらかじめ宣戦を布告するのである。彼はアクセサリーの似合う男であった。その頃までに、男性がブローチやアクセサリーまがいの飾り物を身に着けるなど、中年に差し掛かっていた私には考えられぬことであったが、彼がアクセサリーを首にぶら下げると似合うのである。私はお陰で、その後、世に出てくる若者のファッションに心を乱されずに済むようになった。
こうして、世界は1968年に突入する。パリの町中での学生デモが報じられる頃、アメリカ各地ではヴェトナム反戦のストとデモが大荒れに荒れる。この年はランベス会議の年である。世界から集まった主教たちを迎えて、カンタベリーの駅周辺を学生たちが取り囲み、カンタベリー大主教に国教会としての英国教会の制度廃止を迫る。ウプサラでの WCCに先行するユースの会議は、開会と共に学生たちに乗っ取られて議題とスケジュールの一切を学生たちが作り直す。お仕着せの青年会議などはナンセンスということである。ツルクで開かれたWSCF総会は、終始ヨーロッパに於ける教会の体制批判への風刺と攻撃で満ちていた。ランベス'68では、これら若者の言動を主教たちは「耳を傾けるべし」と評価し、この会議はまた、主教自身の研修の必要を決議し、女性司祭の按手に道をひらいた。私はこれを革新のランベス会議と名付けた。
1969年のファカルティカンファレンスは「社会に於ける大学の意味」を問い直す主題を掲げ、インテンは「教会と社会ーキリスト者のマルクス主義理解」について学ぶ。1969年は学園闘争の最も激しい年であった。この年の第10回スタカンは、北海道江別市で開かれたが、何人もの学生たちが、聖餐式で陪餐を否定した。礼拝を捧げるべく一堂に会しながら、友人の未信徒が会食の席から外されるなら、自分たちは全員が陪餐できるまで断食しようと言う正論である。この陪餐拒否の運動はこの後も続くが、納得のいく答えはまだ聞いていない。
1970年のファカルティカンファレンスは「学問における断続と継続」を予定したが、大学闘争の緊迫した状況の中で、大学関係者は1月早々に比叡山に参集するゆとりがなく、流会となった。学生たちは1月に「SCM代表者会議」を京都で持ち、インテンは「SCM討論集会」に切り替えて自分たちの存在意義を問い直す討論会を開く。しかしスタカンは「戦う神学の構築を!」と題して、社会変革のための信仰主体の確立を目指した。この年に、パウルス司祭とマッチ司祭は、カナダ本国に帰国する。両者ともに、日本のSCMのために先輩経験者として多くのものを残したが、荒れる学園闘争や、全学連のやり方に、自分たちの場を見出すことに困難を感じたのが帰国の一因であったかも知れぬ。

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