| 闘争の挫折
学生たちは自分たちに襲いかかってくる闇の力に、自分と、この世界の滅びを予感して、精神的、文化的、政治的に、拳を振り上げてこの暗闇に立ち向かったが、政治と経済と警察機動隊と言う巨大な体制の力の前に敗北する。大学闘争の挫折である。「挫折」とは底知れぬ絶望感である。「もうなにをしても駄目だ」と言うその虚無感から一体なにが生まれてくるだろうか。2000年を前にした今の時代における挫折感とは違うかもしれぬ。
私は思う。学生たちは自らの生き方を求め、真実を追求する中で、体制への批判を通して、世界の変革に向かって立上がり、その結果として、その闘争が敗北に帰したのであれば、一時の挫折はあっても、その闘争の敗北について吟味しなければならぬ。言葉を変えて言えば、学生たちにおいては、従来の政治、経済、社会、そして大学、教育、宗教のすべての批判が、その本質において批判、追求されていたのか。その運動、闘争の目的は正しかったのか、と言う問題である。
SCMや全学連だけでなく、学園闘争、あるいは学生運動の弱点は、それらを担う学生たちが育てられてきた土壌、すなわち、その近代主義、進歩主義にあるのではないかと思うのである。1970年に「人類の進歩」を掲げた大阪万博に反対した学生たちは正しかったが、しかし、人類の「進歩」それ事態を批判追求するまでには至らなかった。しかし学生たちは、その確かな感性をもって、次には進歩の思想の間違いを糺しはじめるのである。
197O年代の初め
聖公会SCMの歴史を続けよう。学園闘争の瓦壊の余波で、1971年と1972年のスタカン出席者は30名前後になり、1973年、第14回伊豆で開かれたスタカンは「日本キリスト者の戦いー昔と今ー」を振り返って、自らSCMの解体宣言をする。その必然性があったかどうかは分からないが、この時までに、カトリック学連も、学Yも、すでに全国組織の解体宣言をしていた。
1971年にはゴーリング司祭家族もカナダに引き揚げたが、その後暫くして津田恵三が病を得て急逝した。その後私は学生運動中央委員会の委員長を引き受け、鈴木育三が主事になり、次には奥石勇が主事を継ぐ。教会と言うところは有り難いところで、学園に嵐が吹き荒れ、様々な組織が崩壊しても、教会自身はしぶとく生き続ける。学生たちも「前進」「絆」などの機関紙、月刊紙を出しネットワークを広げる努力を惜しまなかった。この時代には、東南アジヤ諸国で催される会議や研修、またワークキャンプに、主事や学生を送り込んだ。フィリピンのWSCF集会、ネパール・ワークキャンプ、韓国、香港、フィリピンのWSCF主催のアジヤ指導者養成研修などである。1974年のインテンでは、「東南アジヤとの出会い」を、もとWSCFの主事をしていた塩月堅太郎氏から聞いた。学生主体のSCMは自壊したが、夏の第15回スタカンは中央委員会が主催して、那須の立教キャンプで「社会人としてのキリスト者」を主題として開いた。
第17回スタカンからは、学生たちが主体を取り戻して、SCM主催で開くようになる。大学の沈静化の中で、この頃から学生たちは、ワークキャンプやボランテア活動に関心を向け始めた。1977年、第18回スタカンは、「共に生きる」と題して、学生たちの現場体験をシェアし、1978年から1980年まで、インテンもスタカンも同じ主題の下に集り、長野県白樺湖の成人精薄施設「山の子学園」でのワークや、三重県菰野の特老と重症身体障害施設「菰野聖十字の家」でのボランテアワークを体験学習した。あの大学闘争に関わった学生たちはもう学園を卒業したが、若者たちは今、社会の中の弱い人たちに心を注いているのである。発展途上にある東南アジヤ諸国に出て、政情不安の中で貧しい生活を強いられている仲間との出会いを通して、自分の課題を見付けた学生もいる。1980年は、繁栄する日本の中で、学生たちが心と目を社会の谷間、苦しみ痛んでいる人々に転じる時であった。

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