日本聖公会中部教区・名古屋学生青年センター
日本聖公会学生運動発足とその歩み
関本 肇
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億!沖縄

 1972年5月15日、多くの問題を残したまま、沖縄は日本の敗戦から27年目になって、日本本土に復帰する。アメリカ支配の沖縄では、聖公会も米聖公会ハワイ教区の下にある伝道教区であったが、この復帰を前にして、日本聖公会は、本土から5名、沖縄から5名を選出して、米国聖公会沖縄伝道教区移管業務実行委員会(通称)「沖縄委員会」を作った。

 私はその委員長に選ばれ、復帰前の3年間に沖縄の島々を訪ね、会合を重ね、また本土聖公会の教区、教会との交流を計画実施するなど、沖縄の人々との交わりを深める中で、その使命の重大さを痛感する頃には、心情的に沖縄に深く傾斜する自分に気付くのである。私はそれまでにも十分に沖縄に関心が育った。それはしかし沖縄の民芸に関するものが中心であった。ここは琉球の民芸を論ずる場ではないが、日常の触れ合いの中で、庶民の手になる工芸品の一つ一つの美しさに驚き、感嘆し、また愛することができたことは無条件の喜びであった。

 近代文明を追求するヤマトの意識は、沖縄を周縁と見下し、差別し、中心としての本土を守るために沖縄戦の悲劇を引き起こしたことは既に良く知られている。しかし本土の人間は、この沖縄戦の地獄を凝視した県民のトラウマ(心の傷)に気付かなかった。いや、それだけでなく、明治の琉球処分以来の沖縄の歴史的な非差別の犠牲も、さらに薩摩の侵入と支配についてもよく知らなかった。

 沖縄は敗戦後アメリカの支配下に置かれたが、その中で日本本土への復帰を求める復帰運動のシンボルは日の丸であった。しかしそれが、明治以来の支配から戦中にかけての、一方的な皇民化教育を押し付ける日の丸であったと言う二重性を知らなければ、沖縄県民の復帰後の日の丸・君が代への激しい反発、沖縄国体の中で、日の丸を引き摺り下ろして焼くと言う、怨念とも言える交錯した心情を受け止めることはできない。この時沖縄は燃えていた。私もその中にいて、昭和天皇の訪沖を阻止する国際通りのデモに参加した。沖縄の本土復帰は、日米安保体制によって、またしても本土の安全をアメリカに託し、その犠牲を県民が担うことに変わりはなかった。日米の合意による軍事基地がある限り、忌まわしい事件は後を絶たない。一体いつまで、いつまでこの状態が続くのか。失業率は日本一高く、生活水準は日本一低い。こうしたことを拾い始めれば、延々として尽きるところはない。

 噫(アア)!

 それにもかかわらず、神々の住む島を取り巻く美しい珊瑚礁の海、雲は家々のあいだを流れて天に続く。キラキラと輝く子どもたちの瞳、人々のやさしさ、すべてこれらが培ってきた多様な琉球文化が、この周縁の島々にあって、今も庶民の文化として息づいているのであれば、そこに人は郷愁を感じる。私は学生たちが沖縄にきて、その感性が生み出すに違いない大きな可能性に期待するのである。そして遂に、「沖縄」を新たに発見する視点が定まるならば、そこからもう一度「日本」を見返し、近代日本がこの島にたいして犯してきた諸々の「罪」を清算し、和解する道さえもが見出されるのではないか。

沖縄・ハンセン病・天皇制・部落差別

 1982年の第14回ファカルティカンファレンスでは「天皇制とキリスト教」の課題を日本聖公会の歴史、また祈祷書の変遷から、塚田理氏の発題から学んだ。学生たちは、1981年から、スタカンの現場を沖縄に定め、第22回スタカンから第24回スタカンまで、ハンセン病療養所「愛楽園」を現場として選ぶ。学生たちの感受性は見事であった。

 ハンセン病の実態について、愛楽園の犀川園長から学び始めたとき、若者の感性は、教会が千年一日のごとく、福音書の「らい病人の癒し」の説教が、ハンセン病者への差別と偏見の上に作られたものであることを看破した。そして直ちに、聖公会の全教会に向けて、「らい病人の癒し」を説教する牧師たちに警告を発した。私はこの後で、何人もの牧師や医師から、質問や批判を受けたが学生たちの発言は正当であったと信じている。

 次には、学生たちは、同じ現場で、祈祷書にある「天皇のための祈り」の検証に取り組む。そして1982年、「天皇のための祈り」についての公開質問状を作り、1983年に、「部落差別問題委員会」が日本聖公会第38総会に「天皇のための祈り」削除の議案を提出した議場に、SCMとして傍聴に詰めかけた。この委員会は数年前に私自身の発議で日本聖公会に生まれたもので、私も議案提出者の一人としてその場にいた。そして、この「天皇のための祈り」削除を巡る議論の中で、「中川差別発言」と名づけられる部落差別発言が引き出される。ここで詳細を述べる余白はないが、これを契機に、「教会が差別する」ことが露になり、日本聖公会総体としての差別体質が露呈したことは良かったと思う(詳細は「中川差別発言」総括報告書参照)。

 1984年、私は沖縄教区の求めに応え、また私自身の思いにしたがって沖縄教区に移った。その年に学生運動中央委員会委員長は関正勝司祭になり、1990年には谷昌二司祭が引き継いで現在に至る。学生たちは、だんだんに視点を変えながら、毎年沖縄セミナーを重ね、1989年、第29回スタカン「アジヤの中の沖縄」をもって、日本聖公会SCMは組織としては終焉する。だからと言って、学生たちの沖縄が終わったわけではない。沖縄が日本本土と共に、その歴史ぐるみに解放されるまで、沖縄セミナーを続けようではないか。ファカルティカンファレンスは、時代のニードを追いながら、環境問題、解放の神学、現代の霊性、人間の解放、女性解放と、課題を設定して継続し、本年、1998年には第30回を数えている。その名前は、現代キリスト教セミナーに変更され、委員会の名称は「学生青年運動協力委員会」と改名されて健在である。

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