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学生運動から名古屋学生センターへの発展.1
塚田 理
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はじめに 最初に断っておかなければならないことは、名古屋学生センターの発足の経緯を迫ると、私にはどうしてもそれまでの自分自身のキリスト教学生運動への関わり、それは結局いわば「自分史」ということになってしまうのだが、それを語らずには名古屋学生センターの発足について語ることができない、という勝手な思いがある。そこで、「自分史」的なことを述べることを許して頂きたいのである。勿論、「自分史」を書くことが趣旨ではないので、自分がどのようにしてキリスト教学生運動に関わりをもつようになったかという観点から書き記すことをお許し頂きたい。
(1) 私のキリスト教学生運動前史(動機づけ) 私のキリスト教学生運動に関する関心が生まれるには、今から考えると、幾つかの契機があった。私は戦後間もなく(1947)立教大学予科に入学し、早速、学生自治運動に巻き込まれた。それは、当時のチャプレンの戦時中の戦争協力発言に対する弾劾学生集会であった。私は自治会の三構成員 (体育会、文化連合会)の一つであるクラス委員会の委員として、この弾劾集会に再三集まらなければならないことになった。ここで左翼系の文化会に主導権を取られた勢力と、学校側の意向を力づくで押し切ろうとする体育会系学生と、そしてその中間で良識的になろうとして何らの力も発揮できないクラス委員会との三すくみの中で再三開かれた学生集会は、結局体育会系学生達の力で押し切られてしまった。私はひそかに左翼系の学生達の言い分に共感を持っていたが、私も入っていた学生チャペル団体の中心であったBSAが教職員主導でチャプレン擁護が暗黙の諒解であったから、何らの動きもしなかったことに失望していた。私は、当時マルクス主義にも関心を持っていたので、文化連合会の最左翼と目されていた社会科学研究会にも入っていて、上級生からマルクス主義思想を毎週叩き込まれていたのである。研究会の連中と一緒に宮場前広場の集会に参加して、警官に追いかけられ、命からがら逃げ帰ったのを覚えている。こうして集団的運動とそれに対する権力の弾圧を体験した。牧師館で育った私は戦時中の体験と、民主化と呼ばれた戦後社会の中での抗議運動に対する国家権力の行使には、根本的には大きな差異のないことを悟った。そして真の民主化のために、どれほど小さなことであっても、そして身近なことから何かすべきであるとの確信と使命を感じた。 第二に、私が学生運動に関心を抱くようになったのは、当時の立教大学の青年チャプレンであった岩井祐彦先生の肝いりで経済学部の松田智雄先生のキリスト教社会思想研究会に参加したことである。ここで今井烝治(聖公会神学院校長)、鵜川馨(立教大学名誉教授、立教女学院院長、同短大学長)の両氏と出会い、年来の友人とさせて頂いた。松田先生からは、カンタベリー大主教ウリアム・テンプルの親友経済学者R.H.トー二一の著作を読まされた。私にとっては四苦八苦の研究会であったが、厳しくてしかも優しい松田先生の人格に惹かれてともかく欠かさずに出席していた。私はここで、社会運動と思想との密接な関係と重要性を深く教えられた。社会思想もしくは理念なしでは運動はなく、また長続きしないことも分かって来た。 第三は、セロ・パウルス司祭との出会いである。もともと、同師と私の両家族は戦前、新潟県の高田(現在、上越市)で一緒に牧会していたので家族ぐるみの付き合いの間柄であったが、実際には私は幼かったので10才も年上の姉と同年のセロちゃん(当時は私達はそう呼んでいた)については殆ど子供の頃の記憶はない。しかし、彼が戦後間もなく今や二代目の宣教師として高田に赴任することになり、以来私は大学の休暇毎に帰省して、彼から誰よりも多くの刺激と指針を与えられた。彼を通して、キリスト教信仰はまさに実践の宗教であり、神学は現実社会との接点で営まれるべきものであることを教えられた。こうして、私はしばしば動揺しがちであった聖公会神学院への進学の意義を再確認し、そこで自分なりに現実社会の神学的意味の探究という恐らくいつまでも果てることのない課題を心に抱いて入学することになった。 以上は、いわば私にとってはキリスト教学生運動の心の前史とも言うべき背景であるが、これを具体的な形で実践的に前史となったのは、立教大学における聖アンデレ同胞会活動、大阪における労働ゼミナール、そして野尻湖での学習キャンプであった。 聖アンデレ同胞会(以下、BSAと略す)は米国で始まった男子信徒の伝道運動であったが、戦前にポール・ラッシュ教授によって立教大学を中心に始められ、やがて立教大学ではこれがチャペルにおけるキリスト教活動の中心的運動となり、チャプターと呼ばれる部会が幾つも誕生した。私は当時第3チャプターに所属したが、3年生の時から『アンデレ・クロス』と私達の名付けた機関誌の編集に携わるようになった。 前節で述べたように、学生の自治活動の重要性を意識するようになっていた私は、BSAの在り方に疑問を持つようになった。私は各チャプターに顧問の教員がおられるのは良いことだと考えていたが、会長や総書記などの重要な執行部が教職員によって握られているのは学生自治に反すると考え、この機関誌を通してキャンペーンを張った。 私としては、立教大学のBSAこそ日本におけるキリスト教学生運動、とりわけ日本聖公会の学生運動の拠点となるべきだと考えていたのである。しかし、この目論見は当時の会長であった小川徳治教授(当時、学生部長でもあった)の総会における「この中にアカがいる」という発言(私は、今でも鮮明に覚えている)によって、レッテルを貼られて折角盛り上がった運動は崩壊した。私の仲間達は会長の発言に恐れをなして、運動はしぼんでしまったのである。「塚田は退学させられるのではないか」などという憶測さえ飛んだのである。今となっては、懐かしい思い出である。 こうして、私はBSAの学生自治運動化を詰め、 BSA第三支部の集会に参加を続けながら、同時に大学内では平和問題研究会と称する会を勝手に作って、当時の大きな政治問題であった単独講和か全面講和がというホットな課題に取り組んだ。「アカ」というレッテルを貼られた私は、この平和運動研究会の集会のビラを配ると学生部長や副部長に呼び出されて、これは公認団体でないから集会の呼びかけをしないようにとの注意を再三受けたが、これを無視して続けた。実際、私の呼びかけに応じてくれる学生は全く少数で、5、6人も集まれば大成功であった。 話は前後するが、この平和運動もパウルス司祭による刺激によって生まれたものである。私は帰省すると、彼と一緒に労働組合やその他の平和運動の団体の集会に参加し、彼の平和についての講演を聞いたり、集まった人々との対話に耳を傾け、また街頭でビラまきなどをしたりして実践的に鍛えられていたのである。 他方、キリスト教学生運動の方は、とても立教大学では不可能と判断し、何とか全国的な聖公会の学生運動を起こせないものかと思案していた。こうして、私は重要な活動を夏の野尻湖の研究キャンプに移して、しこしことやることにしたのである。そして、ここで私を支え、指導し、鞭撻して下さったのが立教大学の大須賀潔教授夫妻とパウルス夫妻であった。また、このキャンプは私にとって鵜川馨兄に加えて、島田麗子姉という生涯の盟友を与えてくれたのである。 |