| 2.夏期学生労働ゼミナールから野尻湖学生キャンプ
(1) 夏期学生労働ゼミナール
大学3年生の夏(1950、昭25年)、パウルス司祭から日本基督教協議会主催の労働ゼミナールに参加してみないか、との誘いを受けた。これは東京と大阪で開かれたが、私は立教大学の仲間数人とパウルス司祭夫妻が主事として指導する大阪の方に参加することにした。当時の申込書を見ると「アルバイトする学生たちがキリスト教精神による共同生活をしながら、いろいろの職場に通い、その労働を通して社会の問題にふれ、その問題をこの宿舎に持ちより、いろいろの専門家の指導のもとに研究し、デイスカスする。そして社会の問題を、正しく把握すると共に、キリスト者として、新しい社会機構の在り方、を探ろうというわけである」と書かれている。
参加者は私達以外は皆関西の学生であった。ここで、私は数人の関西の友人を得ることが出来ると共に、まさに当時の社会問題の最重要課題であった労働問題とキリスト教の役割や責任について体験を通しながら深く学ぶことができた。こうしてこの課題は、私の生涯の関心事となったのである。
私達は昼間は幾つかの工場に分散して、真夏の暑さの中で肉体労働者として働き、夜は労働組合運動、職域伝道、社会主義思想、キリスト教と社会の問題、等々の盛り沢山なプログラムの講演や討論で過ごした。何と言っても一番つらかったのは、あの大阪の夏の暑さ、おまけに木陰のない工場の暑さは格別で、毎夕汗だくになって宿舎となった大阪YMCAに帰って来た。当時は空調設備などは到底考えられない部屋で、疲れた体での夜の講義や討論はつらかったが、主題には関心があったので結構眠らずに聞いていたと思う。
この労働ゼミナールはカナダのキリスト教学生運動(SCM)の活動をモデルにしたものと聞いていたが、実際パウルス夫妻が全体の実行責任者として私達と共に起居を共にしておられた。その後、数回にわたって労働ゼミナールが開催されたが、マッチ司祭夫妻も主事として指導されたことによっても、日本のキリスト者学生運動におけるカナダの学生運動の影響を無視することはできない。また実際、その後の日本のキリスト者学生運動において積極的に活躍した人達の顔ぶれを見ると、その多くの人々がこのゼミに参加した経験を持っていたことを知るのである。
こうして私はSCMについての知識と活動を部分的ながら学ぶことができた。そして、もし出来れば自分もそのような仕事をやってみたいと思うようになった。同時に、パウルス司祭から、こんなことに首を突っ込んだら生涯大変な課題を持って送ることになること、また「キリスト教学生運動は、この世に生きられない人間を作るのだ」というのがカナダの学生キリスト教運動の精神であるとの話を今でも忘れない。こうして、私の立教大学の学生時代の経験はまさにその後、私自身にとっては日本聖公会のSCMの「前史」としての意義を持つことになったのである。
(2)野尻湖学生キャンプ - 聖公会SCMの誕生?
私は鵜川馨、島田麗子の両氏を誘って、野尻湖の山荘で学生キャンプを開こうということになった。そして、大須賀潔先生とパウルス司祭を講師にお願いして、野尻湖の宣教師達が夏期に集まる山荘の一つであったロイド司祭の家をお借りすることが出来た。この山荘は夏向きの質素な山荘であったが、かなり大きくて15名程度宿泊する余裕があり、その上、借料は無料、あとは食費は自弁というご好意でお借りすることが出来たのである。こうして1951(昭和26)年9月3日から7日の4泊5日の日程で、立教、金城、同志社、平安の学生が集まり研究会を開いた。この時の記録では、私は「我らの課題」として次のように書いている。その一部を紹介すると、
「…先ず第一の事実として、聖公会員の学生でキリスト者学生運動(SCM)に属している者が極めて少数であるということ、第二はSCMに属さぬ聖公会員の一部は比較的自分の教会に於ては活動的である事、他の学生は教会に唯儀礼的又は社交的に出席しているという事である。これらの是非は別として、最も我々に欠けている点は、神学に裏づけられた信仰生活のディシプリンであり、真実なサクラメント的生活の何たるかを知らない。大学という社会の中に一日の大半を費やし、家庭に於ける生活もまた学生として送っている我々にとって大学および学問が最大の関心事たるを得ない。この大学及び学問の真実の在り方、その目的、その根本的基礎を究明し、且つそれらを明確に指示することが、我々の義務であり責任である。この故に必然的に(名称はともあれ) SCMが存在するのである。
僅か13名の学生の生活であったけれども、とにかく互いにこの問題について語り合う時を得た。、我々が散り散りに各大学に戻った時に、我々を励まし、力を与えてくれる多くのキリスト者学生が全世界に存在していることを忘れてはならないと思う。…」
講演は、大須賀先生が「基督教者と大学及び学問」、パウルス司祭が「キリスト者学生の使命」と題して行われた。当時の報告記録を見ながら、当時の問題意識を振り返ってみたい。
大須賀先生は、現代の大学は現世の立身出世主義に走るか、教養型の人間が多く、謂わばパリサイ型の人間となり、また現代の大学は本来の大学の目的を失っている、との厳しい批判を行っている。そして、「近代の社会は技術を持った人間を必要とし、この大きな資本主義社会の機械の一部となることを我々人間に、又大学の学生に要求している。大学は単なる職業学校と化し、神もなく人もない場所に成り終わっている」、として「この問題に関わらねばキリスト者学生運動の生命はない」(文責、塚田)と話されている。まさにこの課題は、あれから46年も経った今日、問題が解決するどころか、ますます緊急課題となっているように思う。
パウルス司祭は、キリスト者と大学の問題、そしてキリスト者学生運動(SCM)内における聖公会員の特別な役割について話された。彼の挙げた第一点は、大学は本来共同体としてあるべきであったが、現実はもはや大きく変わり、この観点はむしろ理想主義的で現実から乖離してしまった。従って、キリスト者の使命は、大学の中にキリスト教的交わりの共同体を作り、このグループに他の学生を着きつけ、伝道すべき広範な機動性を持つことである。第二に、キリスト者学生運動は超教派的運動であり、キリスト者となるということはいずれかの教会に属することであるので、ここに聖公会員学生の特別の使命がある、と指摘する。聖公会員は、謙遜でありつつ、しかも積極的に聖公会の貢献をなすべきであり、特に礼拝、団体的規律、カトリック神学の三つを挙げて我々が自らこれらを学びつつ、他の者に説明し、理解してもらう努力が必要である、と強調された。
以上、集まった者は少数ではあったが、キリスト者学生運動の意義と使命を学ぶと共に、それぞれの大学におけるこの運動の必要性と重要性、そしてそれへの献身を強く促されたのであった。記録は、「我々の前途は多難とはいえ、希望に輝いている。それは我々の衝動的な情熱ではなくして、光を与えているのだ。光の中に、光と共に、光を目指して勇敢に而も冷静に進んで行こう!」との言葉で結ばれている。
これだけ読むと、随分堅苦しい集まりのように聞こえようが、結構楽しい思い出の多いキャンプでもあった。私は丁度、その夏、野尻湖に近い小布施の新生療養所(現新生病院)で神学候補生として勤務していたので(と言っても、半ば遊ばせて頂いたのであるが)。療養所の食事場の斉藤主任さんに献立や材料の分量などの買い出しの手ほどきをして頂いたことを今も懐かしく思いだす。これが、私でも野尻湖キャンプの食事係りの務めを無事果たすことができた裏話である。後に、斉藤主任のお孫さんも名古屋学生センターで活躍することになり、神によって結ばれたきずなを思わずにはいられない。
その後、名古屋学生センターあるいは日本聖公会にSCMが生まれるまでにはかなりの時間を要したが、その問題提起と具体的な活動はしばらく「潜在的」となったとはいえ、その本質においてはこの野尻湖キャンプがその起点であったと言えないだろうか。手前味噌かも知れないが、まさにこのキャンプの参加者達がやがてこの運動の主要な担い手、指導者、助言者として活躍したと言っても過言ではないであろう。
私は立教大学を卒業すると、依然として心の底にいささか迷いを抱きながら聖公会神学院に入学した。その時の私の思いは、やがてSCMの活動が、職域伝道のような仕事をしたいと心ひそかに考えていた。それと同時に、前々からキリスト教信仰と社会(特に、社会主義運動)との関係について何か神学的に理解を深めることができれば、と願っていた。したがって、私の聖公会神学院時代の勉学はもっぱらその方面での関心に多くの精力が注がれたのである。
他方、私達の研究会は、最初にパウルス司祭によって指摘された「聖公会の貢献」ということに大きな関心が傾き、彼の強い指導力で我々のほとんどは「カトリック共和会」(これについては、パウルス司祭の論文で言及されているので割愛する)のメンバーとなり、次第に「カトリック共和会」の研究会に変わって行った。こうして、その後の名古屋学生センターならびに日本聖公会SCMの活動が、このカトリック共和会の神学的影響を大きく受けることになったのである。
私自身と言えば、聖公会神学院の学生の間、この「カトリック共和会」の活動に大きな時間を割き、研究会と共に殆ど毎月に近い機関紙の発行や関連文書の翻訳などで忙しく過ごした。当時は、自分が将来聖公会神学院とか立教大学の教員になることは夢にも考えていなかったので、聖公会神学院での勉強は将来の日本のキリスト者学生運動の活動に必要な準備として考えていた。

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