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私は名古屋で大学一年に入った年から学生YWCAのメンバーとなり、専門学校から新制大学に切り替わりの時でもあり、なぜか入り立ての未熟者がYWCAの大きな組織の会長となった。そのため、悩みも苦労も大きかったが、お陰でYWCAに青春をかけ、ここで育てられたという感謝の思いは深く、その後もYWCAのスタッフとなり、ボランティアとしても、一生をYWCAと共に生きることになり、神の摂理と感じている。
運動のはしり
聖公会学生運動との関わりは、大学一年生の時、講師として金城学院にこられていた立大の大須賀潔先生からさそわれ、野尻湖で開かれた第一回の学生キャンプに参加した時からはじまる。パウルス先生の別荘を中心に小人数の集まりは、今思えば聖公会の学生運動のいわばはしりのようなものであり、パウルス、大須賀、矢沢などの指導者たち、塚田理、鵜川、塚田道生などの学生たちが後のSCMのリーダーとして大きな役割をはたした。
SCCなのかSCMなのか判然としないものであったが、カナダのSCMの経験者であった宣教師たちの強いリーダーシップと情熱にささえられ、野尻を中心としたキャンプは7?8回におよび、美しい湖と自然に恵まれた絶好の環境の中で、貧しい中にも、夢多い学生たちに、キリスト者としての使命や日本社会の諸問題への関心を呼び覚ますものであった。何よりも楽しく、人間として解放されるような喜びの中で、学び、遊び、深い仲間の交わりをもつ機会をあたえられた。そこで養われた関心と人間関係は、私が半生を学生運動と関わる原点となった。
私は学生YWCAのグループ活動や全国カンファレンス、またYM、YWを中心とした東海キリスト者学生連盟に深くコミットしていた。プロテスタントの信仰や感覚の中で育ち、当時の「実存主義的」信仰理解に影響を受けていたので、聖公会の信仰理解とくに、SCCのカトリシズムには違和感があり、ジイドの「田園交響楽」の主人公のように、二つの信仰の間で揺れ動き、深刻な魂の遍歴の中で苦しんだ時期もあった。
卒業後、名古屋YWCAのスタッフとして就職してからも、学YのOGとして、また野尻キャンプの現役として関心をもち続け、1957年、山脇町に名古屋学生センターが誕生した時にもマッチ先生や塚田先生、矢沢先生との交わりの中で、お手伝いをした。大学生のみでなく、高校生のためにも是非グループをつくってほしいという4?5人の熱心なメンバーの要求に答えて私がリーダーとして役割をになった。塚田理氏が大学に出掛けてゆき、学生をつかみ、センターに連れてきてメンバーをつくるやり方は、学Y的な内向性でペシミスティックに学生運動をとらえていた私には目を見張るような驚きであった。
新会館をともに
1960年、現在地宮東町に新会館が建つにあたって、センターの副主事として働いて欲しいという要請を受け、YWをとるか、センターをとるかで私は大いに迷い、悩んだすえ、センターで働くことを決意した。マッチ先生とアンさんとの共働の10年間は私にとって本当に楽しく、充実した人生の花のような時代であったことを感謝している。先に書いたようなプロテスタントの内に向かう内面的な信仰の苦しみはセンターの明るい前向きな社会的な使命観によって払拭され、信仰の面でも私にとって転機となった。また名古屋大学などの男子学生との交わりは、新しい境地をももたらした。教会と大学とのハーフウェイハウスとしてのセンターの姿勢からマッチ先生と私とはいっても学生を受け入れ、話しのできる態勢で門戸を開いていた。玄関の横の私の執務室は台所を兼ねており、助手の加藤倫子さんやその後任の山田とみ子さんがいたので、学生にとっては居心地の良い所であり、いつも誰かがいて話しに花がさいていた。名古屋大学の強力なマルキシズムの傾向はセンターにも絶えず持ち込まれ、キリスト教とマルキシズムの論争に火花をちらし、私自身も彼等から大いにマルキシズムを教えられた。
発足から新館での60年代、マッチ先生の帰国と私のYWCAへの転勤の1970年までの間に全くキリスト教を知らなかった学生(主として男子)は約20名が受洗し、会員登録が市内の種々な大学から毎年120人位集まり、時々開かれる講演会や特別集会には学生自身が学内でビラまきをし、多い時には200人が来館した。このような折りにはお話しの後、懇談の時をもち、夕食パーティにうつり、そして最後には音楽やダンスパーティで楽しみ、祈りで終わるというプログラムがくまれた。夕食パーティの準備に始まり、ドレスアップして学生との会話にくわわり、ダンスまで共に楽しむという、裏方と表方をこなすのは大変でもあったが、充実感のある仕事であった。マッチ先生とアンさんのパーティの中での接待役は素晴らしく、ごく自然に学生たちと会話し、センターの活動を紹介し新しい人間関係をつくり、学生たちをセンターに引き付ける力となった。洗礼を受けた学生たちは教会に送り込まれ、学生センターで学んだキリスト者の在り方を教会の中でも実践し、主張したので、牧師たちからは危険な存在として敬遠もされた。普段の活動は主に研究会活動であった。キリスト教研究会、聖書研究会、文学研究会、社会問題研究会、神学研究会などが開かれており、それぞれ近くの司祭の先生や大学の先生たちが講師をつとめてくださった。私は文学研究会でいろいろな小説を学生たちと読み、そこから人間の問題や自分の生き方、信仰の問題など自由に話し合い、また深く作品に接するために文集に意見を書く訓練をするなど週一回の会合を楽しんだ。また範学研究会にはマッチ先生を助けて、一泊どまりの研究会のため、オサンドン役で夕食と朝食の準備をし、夜中まで彼等と語り合い、テキストの翻訳をし、私なりに一生懸命働いた。センターの中心になる人達の学びと礼拝と交わりの場として毎週開かれる大切な研究会であり、私自身も学び、より深い学生との交わりを深める事ができる素晴らしい機会であった。女子学生の多くは柳城学院生であり、特に寮生は学校の規則が非常ににきびしく週一回だけの参加に特別許可を得て出席した。男女共に学ぶ場を彼女たちも楽しみ大切にしてセンターに参加し、活動を支えてくれた。春と夏には特別研究会が開かれ、琵琶湖畔や彦根など2泊、3泊で研究と交わりのカンファレンスが毎年もたれれ遠くから講師を招き、様々な社会や人間の問題を取り上げ、キリスト者として現代に生きるという問題を追求した。このようにして、60年代はまさにセンターにとって花開く時であった。社会的にも学生運動花やかなりし時代であり、恵まれた環境と時代にセンターで働くことができた事を大変幸せに思う。
大学闘争の中で
70年の安保闘争と大学闘争はセンターの活動にも大きな影響を与えた。闘争は挫折したが、体制全体と人間の生き方への深い根源的な問いは社会全体にも大きな挑戦であった。キリスト教学生運動に対しても、その意味に深くせまり、ラデカルな問い直しが行われ、YMCA、YWCAをはじめ日本のほとんどのSCMが解体した。教会への批判も激しくなり、礼拝を守ることにも疑問がおこり、激しい論争が続いたが、それでも聖公会SCMだけは生き残った。この辺りのことはいつか十分に検証したい問題である。センターにおいても学外におけると同じパターンで主事との談判や攻撃が盛り上がっていった。首相を相手に糾弾闘争をするのと同じ方法で、毎日顔を合わせている関係にある主事を突き上げるさまは滑稽でもあったが、大いに論争もし、喧嘩もする毎日であった。
また隣接する名古屋大学の中でヘルメットと角材によって繰り返される建物破壊や血みどろのセクトのぷつかりあいを毎日あれよあれよと見物する日々であった。日米安保、天皇制、靖国問題などがセンターの主たる問題になってきた段階で、私は10年苦楽をともにしたマッチ先生ご夫妻の今後の働きを思い心配した。そしてカナダに帰国する道を選ばれる方がよいという考えを強くした。
その足を促す意図もあって私は一足早くセンターを去り、YWCAに戻ることになった。花の30代を過ごし、40になった私にとって学生運動は体力も気力も限界だと自覚したことでもあった。学生センターの60年代にはOB、OGによるインマヌエル会が結成された。センターで学んだ理念が社会の中でどう生かせるのか、キリスト者として会社や企業の中でどう働くことができるのか、などを突き合せるために、OB、OGのセミナーも何回か開かれ、旧交を暖める機会となった。財政的な支援をするためにイマヌエル基金を設けたり、それとは別にセンター後援会組織がOB、OGや教会の信徒を中心につくられた。カナダ聖公会の支援を手厚く受け支えられ、主事を与えられ、活動費用も援助されていた状態が変り、カナダの予算消滅がったえられた。主事も交替し、センターは財政的にも厳しい時期を迎えた。後援会やイマヌエル基金、小礼拝堂を中心に始まった伝道所からの支援で自立を目指す厳しい70年代を迎え、その冬の時代を塚田道生主事がささえた。
聖公会SCMの関わり
聖公会SCMは、1962年第27総会で学生運動中央委員会設置が決まり、その歩みをはじめた。後藤真主教委員長、関本司祭主事のほかに7名が委員として委嘱された。私は70年センターの主事をやめるまで委員として働かせていただいた。当時女性が聖公会の委員に入ることはまれであった。私はその事の自覚がなかったが、いま思えば委員会はその面でも先進的であった。しかし、一方では外国人への差別が指摘される場面もあったことをおもいだす。はじめての委員委嘱のとき、 SCMの長年の経験者であり、委員会発足に尽力されたパウルス、マッチ、エディ先生たちから驚きの声があがった。私のような若輩が入っているのに、外国人は皆オミットされたからである。そして強い抗議を受けて、聖公会当局もようやくそれが外国人への差別であることに気がつき是正された。
中央委員会は学生信徒協議会(61)学生指導者協議会(61,62)を踏まえて、夏のスタディ・カンファレンスや春のインテンシブコースを毎年企画し全国の学生組織やセンター、教会の学生たちに呼び掛けて運動の広がりとリーダー養成に精力をかたむけた。そして1966年にはカナダから SCM経験豊かなゴーリング司祭を迎え、学生センターの神学候補生ナンバーワンの森一郎氏の神学院卒業を待って、2人のコンビで全国をまわり、教会や大学を訪問し、多くの学生と接触した。東北、九州、京都など地区での学生指導者協議会をひらく一方で、大学関係者を中心としたファカルテイ・カンファレンスを委員会が主催するのを助け、人的な発掘にもつとめた。
学生センターも北海道、埼玉県志木、名古屋の三つが活動していたが、プロテスタントの教団、ルーテル、バプテストなどがセンター活動を試みており、センター交流会もしばしば開かれ、情報交換と懇談の機会をもった。聖公会のSCM活動やセンター活動と学生YMCAとの関係には厳しいものがあり、協力関係が必要とされる中にも、緊張関係があり、関本司祭や他の委員会メンバーが他団体や運動との共働の任にあたられた。

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