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変革期の学生センター
塚田 道生
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1970年代を中心に原稿を書くようにとの依頼ですが、当時の資料は手元になく、細かく調べる余裕もありませんので、薄れた記憶を思い出しながら書きます。時間的に前後したり、事実と相違する点が多いと思いますが、開き直って、思い出すままに独断と偏見を交えて書くことを御許し下さい。 (1) 学生センターとの出会いと伊勢湾台風 神学校を卒業した59年の4月に、マッチ司祭が1年半の最初の休暇を取られ、その間の留守番役として、鶴舞公園の近くの山脇町にあった古い和風の2階建てのセンターに名古屋のことも学生センターのことも知らずに赴任しました。1階の和室2室を改装して学生センターとして使い、2階は主事宅になっていた狭く薄暗い所でした。しかし、活動は優れた人材を顧問団に迎え、研究会や運営を助け、勉強熱心な学生達が集まっていて、信仰的にも知的にも大変刺激的な場でした。赴任した年の夏には矢沢司祭がカナダ留学から帰国して、私の最初のセンターでの役はひとまず終わりました。しかし、9月に伊勢湾台風に襲われ、名古屋を中心に、伊勢湾岸一帯で阪神淡路大地震を上回る死傷者が出る大きな被害を受けました。学生センターに使っていた木造の建物も瓦が飛んだり、室内が水浸しになるなどの被害がありました。すべての活動が休止状態となり、救護と復興作業に追われました。立教大学のBSAの学生を中心に、学生達が1ヶ月ほど入れ替わり、立ち替わり来るボランティアの宿舎としてセンターがにわか宿泊所になり、床にござを敷いて泊まり、その食事や洗濯などの後方支援で大変でしたが、学生達の働きは目ざましいものでした。翌年の60年の春には、矢沢司祭が立教大学のチャプレンとして赴任することになり、私が再びマッチ司祭が秋に戻られるまでの半年間のつなぎ役をしました。 60年は安保で騒然とした時代です。冷戦時代を象徴する「日米安全保障条約」か、10年ごとの改定期に当たり、右傾化を強めていた政治状況に危機感を持った労働者、学生、市民が結束して「安保反対」を叫んだのです。60年の初めかつ6月の条約の可決までの問、国会は連日安保反対のデモ隊に包囲されましたが、名古屋でも栄公園周辺がかつてない大規模なデモ隊で埋まりました。講義を休講にして教授と学生が一緒にデモに参加し、学生センターの研究会も開店休業になりました。非常に観念的だったとはいえ、日本の将来について青年が真面目に考えた時代でした。その当時、活動の中心的存在になっていた人たちが、今もそれぞれの場で活動されておられることは嬉しい事です。 マッチ先生は学生センターの位置づけを「ハーフウェイ・ハウス」とし、センターを大学と教会、社会と教会との中間点にあって、橋渡し役をする場所として位置づけて、大学生が学び、語り合う自由な場が提供されていたのです。山脇町の場所は粗末で分かりにくかったにもかかわらず、柳城短大の学生を中心に、名大や愛知教育大などの学生が結構沢山集まって、熱心に幾つかの研究会に参加し、勉強していました。 秋にはマッチ司祭が戻られ、学生センターの新しい建物も現在の場所に完成して、センターの活動は全盛期を迎えたのです。私は名古屋聖マタイ教会の副牧師を1年半勤めた後、大垣聖ペテロ教会で8年間過ごし、その間も、週に1回はセンターの聖書研究やキリスト教入門講座の講師をしました。先輩の牧師や信徒から「自分の教会の伝道をしたら」とか「小遣い稼ぎ」等ひどいことを言われました。交通費の実費だけで持ち出しでしたが、センターに足が向いたのは、言葉に表し切れない学生達から受ける活力に惹かれたからです。それが、その後のセンターへの深入りにつながったのです。 |