![]() |
聖カナダSCM、SCC 並びに
日本聖公会学生キリスト教運動の初め セロ・パウルス
|
||||
|
序 マージョリーと私は1949年に日本に来たのであるが、二人ともカナダにおける学生運動と関わっていた。SCMは学生時代の我々の人間形成に決定的な影響を与えていたので、卒業後この運動に関わることは極めて当然の成り行きであった。私がマージョリーに会ったのは1943年、ちょうど彼女がマギル大学のSCM主事として決まったときであった。数年後私がモントリオールの教区立神学校の寮長として大学構内に移ったとき、私はボランティアとしてSCMの働きに協力し始め、やがてマージョリーの協力主事となり、こうして我々は婚約することになる。 我々が日本にきたときに、私は二つの希望を持っていた。一つは神学教育、もう一つは学生運動である。この二つの目的はいずれも戦後日本社会にしっかりしたキリスト教指導者を造り上げることである。日本社会は軍国主義の崩壊後の混乱期にあった。こうした状況下にあって、キリスト者は阿部磯雄や今井寿道のような戦前の天皇中心の富国強兵に抵抗した先輩を持っており、正義と平和に基づく新しい社会を造る筈であった。 正規の神学教育への道は、聖公会神学院では西俊次を指導者とする若手のスタッフが決まったばかりで難しかった。それだけでなく、当時中部教区の補佐主教をしていた父が、そうした「中央」での働きでなく、先ずは「周辺」、すなわち庶民の中で働く方がいいという考えを持っていた。今になって、この考えに私は感謝している。その結果私は、大都会ではなく当時人口の70%を擁していた広い日本を見る機会を持つことができた。それだけでなく、私は外人として、東京の制度化された環境では得られない日本人の友人と、膝を交えた生活を経験することができた。そこで私は、その後の長い付き合いとなるダビデ塚田理と出会うのである。 理さんーと呼んでいるがーは1948年2月、我々が横浜埠頭に着いたとき、最初に出会った日本人であった。彼は立教の学生で、その父親は(戦前、私の父と長い間共に働いた)高田降臨教会の牧師であった。我々が中部教区で働くことになった時、大西主教は我々を高田に派遣し、結核を病んでいた塚田さんを助けさせた。1949年2月に我々はそこへ赴任したが、今でも思い出す高田の寒い冬の最中にダビデが手伝いにきて、荷解き、引っ越しの手伝いをしてくれ、町外れの塚田家の小さな持ち家に住むことになった。これが日本聖公会で学生運動と関わることになる始まりである。 |