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はじめに
島田麗子さんから、今度名古屋学生センター四十周年、SCM三十一周年を記念して、SCMの歴史と足跡を記録するので、その前史とも言うべき野尻湖畔のキャンプとファカルティ・カンファレンスの活動についてまとめるようにとの要請を受けました。当時の資料があまり残されていないために、一部は記憶に頼りつつも、出来得る限り資料に依拠してまとめた次第です。当時の資料をお持ちの方がありますれば、お知らせ願いたいと存じます。
第1章 カトリック共和会 1950年代
1949年に来日されたパウルス司祭夫妻は、当時「カトリック共和会(The Society of Catholic Commonweath):以下SCCと略記する」という聖公会の修士会に所属されていた。この修士会の創設者であり、修士会長でもあったスマイス神父(Fr. Hasting Smyth)は、独自の神学の理解の上にカトリック的リタジイを強調し、マルクス主義の社会経済理論に基づく社会改革を目指す教会改革運動を推進されておられた。マサチュセッツ州のグロスタアに修道院(Oratory of St.Mary and St.Michael)を開き、アメリカ、カナダ、英国の聖公会の司祭とその家族が会員であった。もう一つの背景は、パウルス司祭夫妻がモントリオール市のマギル大学に在学中「キリスト教学生運動(Student Christian Movement):以下SCMと略記する」に積極的に参加された経験があり、日本における宣教師としての活動に従事するに当って、SCM活動を展開し、カトリック的礼拝の強調を通して教会の刷新を目指しておられたものと推測される。
[Metacosmesis, Vol.2, No.9, Dec.1956, pp.1-4, Metacosmesis, Vo1.3, No.1, Feb.1957, pp.1-3]
1950年にパウルス司祭は大阪において労働ゼミナールを開催されて、将来指導的立場に立つ可能性のある人材を求められた。参加者には塚田理兄、太田めぐみ姉が含まれていた。1951年の9月に、野尻湖畔のパウルス家の別荘において、第一回の学生キャンプが立教大学の大須賀潔教授を講師に「キリスト教と学生生活」をテーマとして開催された。小生は塚田理兄の誘いで初めてこのキャンプに参加した。東京教区、中部教区、京都教区から参加した学生は約十数名であった。
翌1952年に、第二回学生キャンプが野尻湖畔のパウルス家の別荘で開かれている。大須賀教授夫妻も参加され、立教大学のBSAの学生も参加している。
1953年、1954年には、学生キャンプは開催されなかった。パウルス司祭夫妻が一時カナダに帰国されたからであろう。
日本におけるSCCの活動の可能性を予測してパウルス司祭は、カナダ聖公会にマッチ司祭夫妻の日本派遣を提案し、1955年にマッチ司祭夫妻の来日が実現された。
1955年の9月6日から9日の二泊三日の日程で、再び野尻湖畔のパウルス家の別荘においてキャンプが開催された。ここでは明らかに、SCCの研究会と位置づけられて、SCCの礼拝式文(the Anamnesis)や改正祈祷書の聖餐式文が用いられている。テーマは「日本聖公会におけるカトリック信仰の問題」と「日本社会と我々の問題」であった。参加者はマッチ司祭夫妻、矢沢信夫司祭夫妻、大須賀潔夫妻、塚田理兄、塚田道士見、太田めぐみ姉、大江真道元、鵜川であった。
[The Bulletin and Newsletter of the Society of the Catholic Commonwealth, Vol.3, No.1, Nov.1955, pp.6-8]
このキャンプを機に、日本における「カトリック共和会」が発足し、東京、名古屋、京都、新潟の各地で、それぞれ研究会が開かれることになった。そして機関紙『メタコスメシス』が1955年10月から月刊で刊行されることになった。塚田理兄が編集し、太田めぐみ姉が謄写版印刷を担当し、鵜川が会計と発送事務を担当した。主として、SCCの基本的文献の翻訳を掲載した。
「メタコスメシス」とは、Metacosmesis Mundi per Incarnationem 即ち、キリストの受肉によって、この世に新しい秩序がもたらされるとするスマイス神父の神学を端的に表明するキーワードでもあった。
1956年9月6日から10日まで野尻湖畔で、SCCの第二回研究会が開催された。テーマは「「交わり」に就いて」であった。講師はアメリカ留学から帰国された大須賀潔教授、チャプレンはパウルス司祭で、参加者は男子8名、女子7名であった。
[Metacosmesis, Vo1.2, No.6, Ju1y1956, p.8, Metacosmesis, Vo1.4, No.3, Feb.-March.1957, pp.50-51,71-72]
1957年6月2日に名古屋学生センターが発足し、京都での語学研修を終えたマッチ司祭夫妻と、また聖公会神学院を卒業した塚田理兄が主事となった。マッチ司祭夫妻は、7月18日から一ヵ月の予定で、第二回の労働ゼミナールを大阪で開催された。
[Metacosmesis, Vo1.3, No.5, Ju1y1957, p.10]
1957年9月5日から9日の日程で、御殿場のフェリス女学院のキャンプ場で第3回のSCCの研究会が開催された。テーマは「日本にあるキリスト教」であった。参加者は19名。当初、この研究会にスマイス神父の来日が予定されていたが、健康上の理由で残念ながら実現しなかった。
この年の9月に、矢沢信夫司祭はカナダのヴァンクーパー聖公会神学校へ留学され、12月にはパウルス司祭が聖公会神学院の教会史の教授に就任され、名古屋から東京に転居された。
[Metacosmesis, Vo1.3, No.7, Oct.1957, p.7, The Bulletin and Newsletter of the SCC, VoL5, No.3, Feb.-March.1958, p.38]
第三回のSCCの研究会を受けて、秋から冬にかけて、日本における宗教の歴史を中心に月例研究会が東京で開催され、その議論の結果、日本におけるキリスト教を、特に回心の問題を巡って検討することになり、また、第四回のSCC研究会のテーマとすることにもなった。島田麗子姉は「日本文学における回心の問題」を『メタコスメシス』に連載された。
[Metacosmesis, Vo1.3, No,8, Nov.1957, p.8, Vol.4, No.2, March, 1958, pp.1-3, No.3, Apri1, 1958, p.1]
1958年2月24日の早朝、SCC本部のある修道院が火災で焼失する。スマイス神父は出張中で御無事であった。
[Metacosmesis, Vol.4, No.3, April, 1958, pp.9-10]
1958年5月25日に塚田理兄の執事按手が行われている。
第四回のSCCの研究会が、8月23日から26日の日程で、松本の聖十字教会で開催された。テーマは、「日本にあるキリストの教会ー特に回心の問題」であった。
この研究会で、塚田理兄の英国留学が予定されているので、『メタコスメシス』の編集担当者が大須賀寿子姉に交替することになり、定期刊行ではなくなり、従来のように巻号表示ではなくて、通算号数となり、1958年11月に第29号が刊行され、1959年6月の第32号をもってその刊行が終わっている。
1959年秋に第五回、最終回のSCC研究会が行われた。テーマは「教会生活ーこれでよいのかー」であった。
1959年の夏に塚田、鵜川の長期の英国留学で、日本におけるSCC運動は休止状態となった。
鵜川は、英国留学中、ロンドンのイースト・エンドで労働者として働き、かつ共同生活をしておられたロウ司祭、イサベラ夫人、ウォルトン夫妻のSCCのアナムネシスに、殊に休暇中機会あるごとに参加した。1960年の復活祭に原爆反対のデモ行進、原子力研究所のあるオールダア・マアストンからロンドンのトラファルガア広場までの行進にも部分参加したこともあった。
1960年4月16日にスマイス神父が逝去され、その後、アメリカの修士会も解散された。日本におけるSCC運動も自然消滅することになった。

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