日本聖公会中部教区・名古屋学生青年センター
聖公会SCM 1965-1971
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日本聖公会学生運動の発足とその歩み

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初めに

 1962年に私は日本聖公会に招かれました。それは学生に関する諸活動を手伝うためでした。聖公会にSCMー学生キリスト教運動が始められました。私が日本を去ってからも学生活動は続きましたが、それについては他の人が書くでしょう。しかし学生運動は1971年で終わりました。そのいきさつについては後述します。

1962年12月、日本に行くまで

 私は1944年マギル大学で学ぶためにギアナからカナダに行きました。その時から1960年まで私はカナダSCMに関わりました。初めは自然科学と神学の学生として1944年から50年まで、その後3年間サスカチアンで学生主事、その後さらに3年間全国学生主事を努めました。私はその後も2年間全国組織に関わりましたが、その後どうしようかと考えていました。私の考えは、こうした経験を聖公会の教会のなかで生かす事はできないかという事でした。

 日本のことを考えました。妻のキャサリンは日本生まれで、13才まで住んでいましたし、キャサリンの兄のセロとその妻のマージョリー、また友人のブルース・マッチと妻のアンも日本で働いていました。2年間、色々相談した結果、キャサリンと私は4人の子どもたちと一緒に1962年11月日本への船に乗りました。私の仕事は日本聖公会学生運動中央委員会のもとで、日本の諸大学における活動に協力することでした。

1963年の聖公会の学生活動

 名古屋と札幌に学生センターがあり、北関東教区には学生寮がありました。また東京と京都には活発な学生組織がありました(後述)。また全国集会などには各地から学生たちが参加しました。教会組織としては学生運動中央委員会があり東京教区の後藤主教が委員長で、関本司祭が主事でした。関本司祭は京都の聖光教会の牧師でしたので、私は家族と共に京都に居を定めました。年に2回学生の全国集会が持たれ、中心は夏の大集会で、50人以上の出席がありました。春には研修会がありました。

 聖公会だけでなく他の教派も学生センターを持っていました。学生YMCAは全国の主要な大学に組織を持ち、これは世界学生キリスト教連盟(WSCF)に加盟していました。これとは別にキリスト者学生会(KGK)が多くの大学に組織を持っていました。

大学の状況

 私は最初の2年間は語学の勉強です。しかし1994年に関係者の理解を得て日本中の主要な大学、また学生YMCAや学生センターの現状を知るために、1ヵ月旅行をしました。また書物も読みました。中でも英文の大部の資料は役に立ちました。日本の70以上の都市に大小の大学があり、夫々2,000人以上の学生がいるのです。そのうち60都市には聖公会の教会があります。

 色々の事情で、大学生の過半数は家を離れた大学に所属しています。また資料によると宗教を持っているのは学生の1割ぐらいです。学生は極めて孤独な状況だといいます。大きな私立大学では教室も巨大で、単位を取得しやすいクラスでは、座席の獲得も容易でない状況です。

 私の結論はこうでした。ここには学生たちにイエス・キリストに示された神を示し導く素晴らしい機会がある。愛と正義と赦しの神、この世のあらゆる出来ごとに深く関わり、弱いもの虐げられた者を見出だして助け力づけ、社会と政治の世界に正義を行い、イエス・キリストにおいてこの世に来られた神を指し示すのです。イエス・キリストを通して信ずる者の交わりが生まれ、この交わりに、イエス・キリストは、この世に愛、正義、平和、赦しと新しい生き方をもたらす責任を託されたのです。こうしたメッセージは学生たちの心に響くのではないでしょうか。大学所在都市の諸教会は学生グループのセンターになれないでしょうか。

森一郎(1965-1969)、澤田恵三(1969-1971)との協働

 私は1969年3月に語学研修を了え、中央委員会のもとでの働きを始めました。ダビデ森一郎と言う日本人の協働者が与えられ、彼は名古屋大学卒業で名古屋学生センターにもいました。東京の神学院を1965年に出たところでした。森君は学生運動の経験もあり英語も堪能でした。信仰と知性、創造性のバランスのとれた良い人物で、学生とも気が合いました。私は色々迷惑をかけたと思います。彼は1965年執事、1966年司祭になりました。1969年に彼が辞めたあと、津田恵三が後を継ぎ、その後2年間私のパートナーでした。彼は素晴らしい人間でした。SCM生え抜きで、学生たちの良い兄貴分でした。私たちは楽しく働けましたし、学生運動も育っていきました。

 津田君が私が日本を離れた数年後死んだことはとても残念です。また1996年の森司祭の逝去は私にも日本聖公会にも大きな痛手でした。心から哀悼の意を表し、一緒に楽しく働けた日々を感謝いたします。

 私たちは3つの場所で働きました。第1は京都での学生活動、第2は全国レベルの働き、第3は大学所在都市の聖公会司祭の訪問です。京都ではすでに学生のグループがあり、私たちは聖書研究や研修会を継続しました。第4に私たちは大学ファカルティの会合を始めました。

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