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野村 潔/日本聖公会中部教区司祭
最近、ひょんなことから薬物依存者のSさんと出会い、薬物依存者の救援活動について話し合うようになった。すると、今までは、あまり気をつけて読んでいなかった新聞や雑誌などの「薬物依存者」をめぐる事件報道や記事が、次々と目に入ってきて、これほどに社会を賑わしていた問題だったのだと、あらためてその事柄の深刻さを感じ始めている。
私にとって「覚醒剤」や「麻薬」というのは、ほとんど暴力団か、彼らと関係した芸能人や水商売関係の人たちの問題で、言わば「ウラの世界」の話だと思っていた。10年程前に、カナダやアメリカの教会の働きを見学した際に、各地で、確かに「ドラッグ」をめぐる問題の深刻さを、何度も耳にしたことがあったし、実際、トロントでは、少年たちが「ヤクの売人」をしている地域の見学にも行ったことがあった。そして、いずれ日本でもこうした問題が起こってくるのかも知れない、などと思ったりもしたのだが、実は、ちょうどその頃に、名古屋において薬物依存者のためのリハビリセンターである名古屋ダルクが誕生しており、また、当時の新聞では、シンナーによる少年の補導人数は、愛知県が年間5632人で全国1位になったことを報道していたわけで、ずいぶんと悠長な時代感覚だったと反省している。
ともあれ、今日の日本では、その頃よりもはるかに薬物依存者、殊に覚醒剤中毒者の数が増加しており、しかも、この数年はより低年齢化している。もちろん、その背景には、そうした薬物が身近で、しかも低価格で販売されていたり、或いは携帯電話やインターネットの普及によって、その販路が飛躍的に拡大しているという事情があるのだが、しかし、今、私たちが考えなければならないことは、むしろ、青少年をめぐって、一体、何が起こっているのかということではないかと思う。
青少年をめぐる問題を項目的に拾ってみると、いじめ、不登校、家庭内暴力、学級崩壊、高校中退者の増加(10万人以上)、援助交際、少女売春、おやじ狩り、プチ家出、深夜俳個、大学生による集団強姦事件等、この10年、20年の間に実に様々な問題が取り上げられている。こうした事柄の一つ一つを見ても、青少年をめぐる状況は、明らかに激変しているように思える。もちろん、たとえば高校を中退した者の多くが薬物に手を染めているというような偏見を持ってはならないが、しかし、今日の青少年の状況の変化と薬物依存者の増加や低年齢化の問題は、どこかで通底しているように感じるのである。
こうした青少年をめぐる昨今の状況は、これまでの社会が当たり前としてきた枠とか価値観とかが、一挙に崩壊してしまったような印象さえ感じさせる。かつての学生・青年たちが、大人の世界の価値観に抵抗しながら、どうにも突破できなかった壁を、今の青少年は、方向は異なるにしても、いともたやすく突破した(?)かのようにも思える。
陳腐な物言いではあるが、「人はお互いに支えあい、信じあえなければ生きられない」というような生き物であるならば、彼らは支えられる相手を、或いは信じ得る対象を「薬」に見出しているのかも知れない。ある薬物依存者は、「友人、大切な彼女、両親よりも、いちばん大切だったものはシンナーであった」と語っている。そこには、やりきれないほどの「人間不信」が感じられる。これまでの大人が、青少年であれば必ずや抱くであろうと、信じてきたような人生の夢や希望は、多くの青少年にとってはこの上もなくナンセンスなものになっているのではないだろうか。
薬物依存症は、その個人の人生を破壊するだけでなく、時として、家族、友人、或いは全くの他人の人生をも破壊する可能性が高く、決して看過できる問題ではない。しかし、他方、この「人間不信」の世界を生み出してきたのは、一体誰なのだということを考えざるを得ない。薬物に走る青少年の多くは、成長過程において何らかの精神的な傷(トラウマ)を負っていると言われている。その意味では、彼らもまた現代社会の歪みの犠牲者であると言える。それを思うと、薬物依存をめぐる問題は、限りなく深くて、重い。21世紀を共に生きる仲間として、青少年が失った人間や社会に対する最低限の信頼を、私たちはどのように回復するのだろうか。決して他人事ではなく、そのことを私たち大人は問われているように思うのである。

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