| 学生青年センターでは、毎夏、フィリピンと沖縄へのスタディツアーを計画している。どちらも80年代から開始したプログラムで、それなりに歴史を刻みながら、人々の交わりを創り出してきた活動である。ツアーの内容については、毎年、この「こえ」でも報告されているので省略するが、スタディツアーを始めるに至った背景や沖縄を訪れる意味について述べてみたいと思う。まずは、沖縄スタディツアーから。
(1) 沖縄愛楽園との出会い
学生青年センターが中部教区との共催で行なってきた沖縄スタディツアーには前史がある。聖公会には、かつてSCM(学生キリスト教運動)という学生による全国組織があり、60年代から幅広い活動をしていた。SCMの活動や歴史については省略するが、紐余曲折を経て、SCMは1981年から毎夏、沖縄に行き始めた。当時は、スタディ・カンファレンス(以下『スタカン』と略)と呼んでいた。
実は、私の沖縄体験も、この時、SCMと共に始まったのであるが、最初の出会いは刺激的であった。
中部沖縄の屋我地(名護市)に国立ハンセン病療養所「愛楽園」がある。ここは、自らもハンセン病を患っていた青木恵哉氏(後に聖公会執事)が、病気に対する無理解と偏見による住民の激しい迫害を受けながら、 1938年に創設した療養施設である。SCMは、当初、沖縄での学びの拠点をこの愛楽園に置いた。
1980年代初め、日本では、いわゆる「教科書問題」が起こり、アジア諸国から激しい批判を浴びていた。第二次大戦の引き金になったアジア諸国への「侵略」という表現をめぐって、文部省が、あれは「侵略」ではなく「進出」だと言いくるめようとした問題に象徴されるように、国家権力は教科書の内容や語句について細かく干渉しようとしていた。
私たち一行を那覇空港に迎えに来た松岡和夫伝道師 (当時)は、彼自身もハンセン病患者として、愛楽園の中にある「祈りの家教会」にて奉仕をしていた。私たちは、松岡先生の案内で愛楽園に向ったのだが、この時、彼が、片道約2時間余のバスの中で、繰り返しこの教科書問題に触れ、歴史をねじ曲げてはならない、事実は正しく伝えなければならないと、強く語っていたことを、非常に印象深く覚えている。
また、愛楽園でも、患者さんたちの多くはかなりの年配の方々であったが、彼らも同じように、この教科書問題について熱く語っていたことも驚きであった。滞在中のある日、患者さんの一人に自分史を語っていただいたことがあった。その人は、ご自分の話の前にお祈りをして始めたのだが、その祈りの中でも、教科書問題を取り上げ、あれは間違いだから、事実を正しく伝えることができるようにと祈ったのである。教科書問題のようなテーマについて、日常的にこのような形で取り上げられることなど、教会も含めて本土では、ほとんど考えられないことであった。
彼らとの出会いを通して、私が強く感じたことは、本土の人間にとっては見えない、或いは見えにくくなっていることが、沖縄の人たちには、非常によく見えているんだということであった。と同時に、この意識のギャップが、私たち本土の人間が、戦後の長い間、沖縄に巨大な基地を押しつけながら、平気で生きてこれた理由ではないかと思えたのである。私は、この時、沖縄の視点から日本を見続けることの大切さを実感したような気がした。
(2) 沖縄の視点がもたらしたもの
'82年の沖縄でのSCM『スタカン』は、日本聖公会の歴史にとって、ひとつの転換点にも値するような重要な時となった。
参加者は、愛楽園滞在中のある日、日本軍による中国大陸への侵略や南京大虐殺を取材した16ミリ映画「侵略」を患者さんたちと一緒に見ている。その後の議論の中で、誰とはなく「どうして日本聖公会の祈祷書の中に『天皇・皇室のための祈り』が載せられているのだろうか」という疑問が出された。
言うまでもなく、沖縄戦では、多くの沖縄住民が、友軍であるはずの日本軍、つまり天皇の軍隊によって殺されたり、或いは集団自決を強いられたりして生命を奪われている。日本軍は、沖縄住民をスパイとみなし、降伏することも許さず、本土防衛の捨て石として、幼気な少年まで戦闘に駆り出し、全滅するまで戦うことを強要したのである。それは、まさに天皇を守るための時間稼ぎの作戦だったのである。
少しでも沖縄の歴史を知った者ならば、祈祷書の中で「天皇・皇室のため」にその繁栄と長久を祈ることが、いかに不自然で理不尽なものであるか、すぐに気づくはずである。しかし、日本聖公会の祈祷書には、長い間、この「祈り」が掲載され続けてきたのである。
この時の何気ない問い掛けは、結果的に、聖公会主教会への公開質問状の提出という行動に結びつき、更には日本聖公会総会に祈祷書から削除する旨の議案を提出する動きに進展していったのである。このことは、教会の歩みにおいても沖縄の視点がいかに重要であるかを、私たちに認識させた出来事であった。
(3) なぜ沖縄に行くのか?
SCMによる沖縄でのスタカンは6年ほど続いたが、その後はSCMの弱体化もあり、継続することが困難になった。しかし、私たちが、本土において様々な活動を考える際にも、沖縄の視点は不可欠である考え、学生青年センターのプログラムとして継続することにしたのである。その頃、中部教区もまた、教区会決議によって「沖縄の日」を定めていたので、協働しながら沖縄に関わることになった。
そして第1回目のスタディツアーが1988年に行なわれて以来、私たちは、毎年のようにスタディツアーを企画し、沖縄を訪問し、戦跡や基地をめぐり、いろいろな人々との出会いと交わりの機会を提供してきた。スタディツアーでの体験や学びは、とても刺激的で、かつ楽しいものであるが、その一方で、主催者としては、常に自分自に問い続けなければならない課題があった。それは、やはりスタカン時代に、沖縄の青年から学んだことであった。
SCMスタカンの実行委員たちは、沖縄の歴史、基地問題などについて、よく勉強していた。弁の立つ本土の学生たちに比べて、沖縄の青年たちは、概して言葉数が少なかった。ある時、学生たちが基地問題について議論をしている時に、それをじっと聞いていた一人の沖縄の青年が、「1週間程度、沖縄に滞在して、上っ面だけ見て、基地問題の何がわかると言うのか。おれたちは、毎日、その中で生活しているんだ。無責任なことを言うな」というような趣旨のことを語ったことがあった。
私には、その言葉は、あなたは「沖縄」を単に学ぶ対象としてはいないか、自分は傷つかない安全な場所にいて、無責任に沖縄を語っているだけではないのか、という問いかけに聞こえた。
同様の問いかけは他にもある。沖縄中部の戦跡のひとつである「チピチリガマ」を訪ねるとき、私たちは、日の丸焼き捨て事件の知花昌一さんにガイドをお願いすることがある。彼は、しばしば、私たちの心を見透かしたように、普天間基地の県内移転に反対するなら、皆さんの住んでいるところで、基地の招致運動をしてくださいと問いかける、そこには、あの青年の言葉同様、共感とか連帯というのは、お互いの生活の場での取り組みの中から生まれてくるのだというメッセージが込められているように感じるのである。
基地や戦跡を巡り、人々が直面してきたすさまじい歴史と現実を学ぶために、沖縄を訪れる人は多い。しかし、私たちは、その学びを自分たちの生活の場で、どのように生かそうとしているだろうか。沖縄に学びながら、私たちの日常において正義と平和への取り組みを深めていくための機会として、今後もこのスタディツアーが用いられることを期待したい。
人が行き交う場をめざして・目次
|