第496号(2000年11月)
Mさんは私が以前牧師をしていた教会の信徒で、写真屋さん。先日、神戸での主教会の後で、お訪ねして家内と二人の、まだ私だけの正式な写真を撮ってもらいました。
Mさんの写真家としての腕前は超一流。結婚式などの記念写真撮影は、シャッターをきるまでにとても時間がかかります。後ろで見ている人が、「○○さん、もっと笑って!」などと新郎・新婦に言おうものなら、「黙っていて下さい!」と振り返って一喝。Mさんが納得する表情を撮るまで一切妥協をしません。
「最近はこの仕事もやりにくくなりました」。髪の毛一筋、胸の十字架の位地にも細かく注文をつけながらMさんは私の緊張をほぐすかのように話しをされました。「最近は、結婚式でも集合写真でも、皆さんは時間がかかるのを嫌がり、「適当でいいから」とおっしゃるんですよ」と。Mさんにとって、「適当に」という求めには絶対に妥協できないのです。そして結果的に、出来上がった写真を見る人は皆、Mさんの作品に感嘆の声を上げるのです。
今の時代、私たちの信仰生活は、「適当に、適当に・・・・」という誘惑に妥協してしまうことばかり。主日礼拝の出席にしても、献金にしても。そしてその結果は申すまでもないこと。喜びも力も枯渇してしまいます。
その夜、Mさん一家と一緒にお祈りをして別れ、翌日の夕方、その朝にMさんが神様の御許に召されたことを知りました。私達の撮影がMさんの最後の仕事でした。これから出来てくる写真は、間違いなく最高の写真です。
主教 ナタナエル 植松 誠