第505号(2001年8月)


深夜のテレビの討論会を見ながら何か表現の仕様のないもどかしさといらだちを感じました。靖国神社公式参拝がテーマでしたが、その中で、靖国神社が日本人の心の拠り所だとか、そこに祀られている「英霊」を参拝しないとは日本人としてなげかわしい、これは日本国内の問題であって、諸外国からとやかく言われる筋合いはない、などと言う著名人、学者、政治家の意見を聞き、そのようなことが「日本人」を定義づけるものだとしたら、わたしは日本人ではないのだなと思いました。日本人の宗教心とか、死者の祀り方とか、慰霊などということは、十把一からげに一般化してはならないことです。
 「先の戦争で亡くなった方々は、靖国神社に参拝してほしいと願っている」と主張する人々は、「わたしはそこに られたくない」という人の声など、一蹴してしまいます。祀るか祀らないかは、神社が決め、「わたしの夫をそこからはずしてほしい」とか「A級戦犯を分祀すべき」という声に対しては、「神になった方々を分祀するなどということはできない」と言うのです。
 靖国神社の「教義」なり、「日本的な死者の祀り方」があるのは構いません。また、一人ひとりの信仰のあり方があることも尊重します。ですから、小泉純一郎さんが、個人的に、どのように靖国神社に参拝しようと、それは小泉さんの信仰の自由です。しかし、それを公的に行うということは、靖国神社という一宗教法人、またその「死者の祀り方」に対して政府が加担することになるのです。わたしには、それは許せません。
      主教 ナタナエル 植松 誠


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