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第510号(2002年1月)


 新年明けましておめでとうございます。
大晦日から元旦への時間の流れは、毎年同じことの繰り返しなのですが、それでも「年越し」として、毎回特別な思いを思って私たちは過ごします。過ぎし年の良かったこと、喜ばしいことを感謝し、また、苦しかったことや悲しかったことを忘却の彼方に始末し、新しい年には身も心も一新して、澄みきった思いで出発するのがお正月です。
しかし、今年の正月は、何もかも一新してと言うにはあまりにも重く、やりきれない悲しさと恐ろしさを昨年からそのまま引きずっています。昨年九月に米国で起きた「同時多発テロ」から、アフガニスタンへの報復攻撃、「テロを許さないで断固戦う」という米国の主張をそのまま利用してパレスチナ自治区への軍事行動に踏み切ったイスラエル。多くの人々が殺され、傷つき、家族や家・財産を失い、難民となって飢餓や病気で苦しんでいます。また、今後もテロ撲滅への戦いの大義名分で武力行使が他の地域に拡大していきそうな気配です。
このような世界情勢の中、私たちの年頭、また年間の祈りは、「主よ、平和を与え給え」というものでしょう。「平和の君」(イザヤ9・5)と呼ばれる主イエス様の愛が人々に、そして世界に広がっていきますようにと真剣に祈るためには、私たちも「主の平和」がどのようなものであるかをもう一度黙想してみなくてはなりません。
「十字架によって敵意という隔ての壁を取り壊し、一つの体にしてくださった」。このキリストの平和の福音のおかげで、「私たちが一つの例に結ばれて父なる神に近づける」(エフェソ2・14以下)と聖書は教えています。平和の前提として主の十字架があったというのです。十字架とは、自分を無にして僕の身分になり、へりくだって、命まで差し出してしまうことです(フィリピ2・6)。 平和を求めて祈るとか、行動するということは、そこに痛みが伴うのです。自分の大切にしている権利、もの、時間、お金などを敢えて犠牲にしていくだけの覚悟が要るのです。 痛みを伴う自己犠牲は、自分を正当化したり、自分を正当化したり、十分に人の言うことに耳を傾け、その人のあるがままをまず受け止めることです。それが難しければ難しいほど、主の十字架の御苦しみを思い浮かべるのです。
 私たち一人ひとりは主によって愛され、主の十字架によって赦された者です。そこから私たちは共に出発するのです。十字架の痛みの彼方にある平和に向かって、互いに励まし合って歩んでいきましょう。
       主教 ナタナエル 植松 誠


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