第481号(1999年8月)


「神社参拝は宗教儀式ではなく、国民儀礼です」ということで、キリスト教徒にも

神社参拝が強制された時代があり、それは日本だけではなく、日本の占領下にあった

アジア各地でも行われました。戦後、私の小学校時代にも、遠足で神社に行くと、

その前で「整!列!」ということがあり、その度に「何かおかしいな・・・」と疑問

に思ったものでした。「日の丸」を国旗に、「君が代」を国家に制定しようとする

法案が衆議院を通過し、現在参議院で議論されています。私はある時期まで「日の

丸」が大好きでした。とても美しいデザインだと今も思います。しかし、多くの

アジアの人たち、在日外国人、沖縄の人たちと出会い、今でもたくさんの人々が、

この旗を自分や親たちに加えられた苦しみや悲惨、屈辱を想起させる象徴として

見ていることを知り、「日の丸」を掲げることができなくなりました。

「君が代」の「君」をどのように解釈するか議論が分かれています。「象徴天皇」

「日本」「私たち」・・・など、全く異なった解釈がされているのを、どうして今、

強引に決めてしまわなくてはならないのでしょう。「それらによって国を愛する

心を涵う」と法案提案者は言いますが、法律を作って従わせて「国を愛する」心

を作り上げることができるとする考え方の貧困を憂えてしまいます。

過去の罪を悔い改めるのは実際の行動(政策)となって出てこなくては意味があ

りません。悲しみ苦しんでいる隣人に視線が向かず、何の反省も見られない国を

愛することはできません。

   主教ナタナエル 植松 誠(八月四日記)



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