「今日のお説教は主人に聞かせたかった」、「こどもに聞かせたかった」などと礼拝の後に言われることがあります。居眠りもせずしっかりと説教を聞いてくださったことはとても嬉しいのですが、どうも少し気になります。
説教はその場(礼拝堂)にいる人に向かって語られるものです。そこにいる人の顔を見ながら、「この人に聖霊が働きかけて、今語るメッセージが、その心の深いところに届きますように」と説教者は祈りながら説教します。
「夫に、妻に、こどもに聞かせたい」と思うということは、その人の心の琴線が説教に共鳴していることです。メッセージはちゃんと心の奥に届いています。でも、ここからが大事なのです。「誰々に聞かせたい」のではなく、あなたに聴いていただきたい。今、少なくとも説教中は、他の人の心配はしないで、自分に直接語られているものとして聴いていただきたいのです。自分の心を、信仰をその説教によって振り返って、大いに考え、反省し、涙し、唸(うな)り、そして喜びと希望を見出してほしいのです。自分が説教によって養われ変えられた時に初めて、夫や妻、こどもに、自分の言葉でそれを伝えようということになり、それこそが福音宣教となります。
「今日のお説教は、私のことだったのでしょう。どうして私のことがわかったのですか」と言う方があります。自分に向けて語られた説教として聴いたのでしょう。それが説教を聴く心構えだと思います。