誰でも、触れたくない、思い出したくないということが自分の過去に一つや二つはあるものです。できれば、それを自分の過去から消し去ってしまいたいことが。しかし、それは、心の奥深いところで決して消えることなく、重苦しく、悲しく私を苛み続けます。
先日、私は横浜教区の教役者会に招かれ、三日間を箱根で過ごしました。世界の聖公会の現状について講話をすることになっていたのですが、その冒頭、お許しを得て、横浜教区で生まれ育った私がなぜその教区の聖職にならなかったかを話させていただきました。それは私にとって、触れたくない過去の部分に関することでした。
牧師の家庭に育った私でしたが、ここでの中学生時代、高校生時代は自分の心の中では、親に対する反発、キリスト教に対する反発でいっぱいでした。父が引き取って我が家に同居している沢山の人々に対しても私はいつも憤りを抑えることができませんでした。家を出たい、キリスト教から逃れたいと思い続けた私の青春時代。荒れていた自分の過去を思い出すのはとても辛かったのです。
横浜教区の教役者の方々にその話をしながら、その過去あっての今の私があることを思い知らされていました。触れたくない過去をも十字架の主に委ねてしまうということを。あの青春時代が主の贖いによって後の恵みに変えられることを。この教役者会は、私にとって救いと安らぎの時となりました。自分自身との和解ができたと思いました。