| 聖餐式 毎週日曜日 午前8時00分、 午前10時30分 |
| 日曜学校 毎週日曜日9時00分 |
| 婦人会 毎月第2日曜日 礼拝後 |
| 聖歌隊 毎月第3、第4日曜日 礼拝後 |
| 聖書勉強会 毎週金曜日 午後3時30分 |
<礼拝・集会案内>
さて本日の福音書は,
場がありました。実は三つなのですが、福音書の中に登場するのは、サドカイ派とファリサイ派で
活動し、神殿での礼儀を重んじる人びとです。一方のファリサイ派は、ユダヤ各地にあった会堂を
中心に活動し、律法の順守を重んじる人びとです。ともにイエスの教えと活動を危険なものと見な
していました。
その敵対するファリサイ派に属するシモンがイエスを食事に招待したのは、
イエスの教えと活動に理解を示してというのではなかったようです。
| 〒330−0854 埼玉県さいたま市大宮区桜木町 2−172 |
| TEL:048−641−2923 FAX:048−641−2979 |
| JR大宮駅西口より徒歩3分(ダイエー駐車場横) |
<所在地>
ということは、彼らが究極的存在を求めていることの現われでもあります。
得ることができます。
「あなたの罪は赦された」
的な価値を信じるものから、究極の一端に触れることのできる習俗へと転化していったのだと
も拘束し、絶対的な服従を要求する宗教もあります。このような宗教に若い人たちが心を惹かれる
日本の歴史において、鎌倉時代には
存在の奥底から、心の平安を
無条件の神の愛に包まれる
化し、幕府安泰の国家形成に努めました。これによって日本人の宗教に対する意識は、究極
と宣言されます。罪の赦しとは、罪ある自分の存在すべてが、神によって受け入れられているとい
「あなたの信仰があなたを救った」
神の子なのです。イエスは言われます、
見ることができれば、宗教の役割は充分ということでしょう。
〔2010年7月22日更新〕
あいさつをしていないからです。彼はイエスを迎えて食事をし、それによってイエスの教えがどの
の関わりは、究極的な価値を宗教とみなす人びとからすれば、究極の一端に触れ、それを垣間

察したいとでもいったような醒めた気持であったと言えるでしょう。
ようなものかを知りたいという好奇心はあったでしょうが、どちらかと言えば、イエスをより深く観
なぜなら彼は、イエスを迎えるに際して、心からの歓迎のしるしである足を洗うことや接吻による
おそらく娼婦でしょう。
ですから宗教としては受け入れも、そこにすべてをゆだねることはありません。新年を迎えれば

神社にお参りし、結婚式はキリスト教で行い、葬式は家での宗教で営むという日本人の宗教と

イエスが教え示された愛の神を、広く、そして深く伝えることができるように祈りましょう。
入れた彼女は、もう過去のしがらみに生きる存在ではありません。罪深い女でなく、新しい存在、
うことです。絶対無条件の神の愛が、人間存在を包んでいるということです。そしてその愛を受け
そのシモンの家に、招かざる客が侵入します。罪深い女と書いてありますが、
ルカによる福音書第7章36節から50節までが朗読されました。
しかし一方、現代の日本社会には、究極的存在に身をゆだねることを要求して、心もからだ
多くの日本人の宗教に対する態度を支配しています。
「安心して行きなさい」と。
教が彼女に与えたのは、罪深いという烙印です。
す。ちなみに後の一つはエッセネ派です。サドカイ派は、当時エルサレムにあった神殿を中心に
思います。江戸時代の日本は閉じられたものとなり、その中で人々は平和に生きることを求め
のにも代えがたいものですが、しかし一方で、それが本当のものでなければ、信じた人の
られました。そして
浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗
それを彼女は気付かされたのです。罪深い自分が、神にとってかけがいのない存在なのだという
自覚と喜びが、イエスへの少々常軌を逸した行動となって現れたのだと言えるでしょう。
物語は、ファリサイ派に属するシモンという人が、イエスを食事に招待したところからはじまります。
多くの日本人が、究極的意味を持つ宗教に、すべてをゆだねることに抵抗感を持ってい
信仰というのは、
彼女が以前イエスとどこで出会ったのかいついて、福音書は何も書いていません。当時のユダヤ
彼女は、イエスの足をその涙でぬらし、接吻し、そして香油を塗ります。
キリスト教の母体となったのはユダヤ教ですが、イエスの時代のユダヤ教には二つの大きな立
るのは、宗教の持つこの二面性に対する一つの態度表明だと思います。そしてそれは日本
の歴史の中で形成されたもののように思われます。
しかしイエスは、神の子としての尊さを見ていました。
、 江戸時代に形成された宗教観が現代にいたるまで、
教会が、究極的存在を求めている現代の若い人たちに、
を意味しています。ですから信じるに足る究極的もしくは価値に出会ったときの喜びは何も
イエスは彼女に
ことです。このときわたしたちは、
究極的存在に身をゆだねるとは、こうゆうことです。
一向宗やキリシタン
という国家を超える究極的価値を主張する宗教が勢力を伸ばした時代でした。しかし戦国時
代が終り、天下統一が果たされると、徳川幕府は究極的な価値を主張する宗教を弾圧、無力