「仕える者」

司祭 ガブリエル 西海雅彦

 人が複数集まるところでは必ずと言っていいほどグループができるようです。その理由は、意見や考え方、あるいは趣味、あるいはまた相性や性格など様々であります。そしてこうしてできたグループ内でも更に枝分かれすることがよくあります。このことはすなわち、人は皆、異なるということ、人は個性を実っているということであり、極端なことを言えば、百人いれば百のグループに分かれても決しておかしくはないということになります。つまり、私たちはだれでも、自分とは異なる人たちと接して暮らしている、これが社会であります。このことは、教区内でも、教会内でも、更には家庭内でも言えることだと思います。
 さて、このような中で暮らしていますと、競争心が芽生えてくるものであります。人よりも目立ちたい、人よりも優れたいなど、自分が他の人に勝ろうと努めるわけであります。

 ルカによる福音書第22章に、次のような話があります・イエスの使徒たちは、12人の小さな集まりでしたが、そこには様々な個性がありました。ある時、彼らの間で「だれがいちばん偉いか」という議論が起こりました。彼らがいちばん偉いと思いたい、思われたい理由は、他の使徒の上に立ちたいというものだったと思います。

 さて、彼らの議論を聞かれたイエスはどう答えられたでしょうか。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い人のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とはどちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」。
 イエスは、いちばん偉い人とは「若い者」、「仕える者」、「給仕する者」であると言われたのであります。世間一般には、若者よりは年輩、仕える者よりも使う人、給仕する者よりも食卓に着く人の方が上と考えられています。なのにイエスはあえて世間の常識とは正反対のことを言われたのでありますが、それはなぜでしょうか。

 そのポイントは「自分」と「他人」であると思います。普通偉くなりたいと思う場合、人は他人の前へ行こうとします。こうした考えの根底には、まず「自分が」という思いがあるのであります。「自分が他の人よりも」という自分中心の思い、逆に言えば、「他の人はさておいて」ということになります。ところがイエスが奨めるあり方とは、前ではなく、後であります。後とはすなわち、「他人のことをまず第一に」という思いであります。偉い人、あるいは人の上に立つというのは、まず第一に人から信頼されなければなりません。人は皆、個性があり、異なります。その中で暮らし、信頼を得るには、人の上に立とうとすることよりも、まずは他の人に仕え、他の人のことを考えようとする姿勢ではないでしょうか。それができる人こそ、本当の意味で偉い、上に立つにふさわしい人である、というのがイエスが主張されたことではなかったでしょうか。

 私たちは常に何らかのグループの中で異なる人たちと共に暮らしていますが、イエスの言われた「仕える」精神を心に刻み、「他の人」のことをまず第一に思うといった姿勢で人と交わり、お互いに信頼できる関係を保っていきたいと思います。

(土浦聖バルナバ教会)


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このページの曲は、聖歌第497番です。