主イエスの復活の恵みに
イースターメッセージ
主教 ヤコブ 宇野 徹
復活日の特祷の冒頭に「すべての命と力の源である神よ」とあります。この祈りは、神がすべてのものの命の源であり、力の源であり、私達人間が神によって命を与えられてこの世に存在し、生きていることを語っております。しかし、私達はこの厳粛な事実に目を向けることなく、自分の力や努力によって生きているように錯覚し、傲慢な思いに陥ってしまいます。そして自分の人生は自分の力によって切り開いていかなくてはならないように思うがゆえに、自分の力ではどうすることもできない病や老い、死に直面した時に狼狽し、絶望してしまいます。
ローマの信徒への手紙6・23で「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」とパウロは語っています。神の存在を蔑ろにし、自分中心に、自分の力や知性のみを頼みとして生きようとする人間、神に背を向けて生きようとする罪なる人間にとっては、死は自分の存在を虚無に服するものとして受け止めざるを得ない耐え難い恐怖であり、絶望の何物でもありません。

このような死は神から離れた罪なる人間にとっては、不安であり、悲しみであり、虚無であり、絶望であるのです。しかし、聖書は神によって主イエスが死からよみがえらされたことを告げています。よみがえり(復活)は死からのよみがえりであって、死を前提にしております。死のないよみがえりはありません。よみがえりは死に打ち勝つことであり、死を克服することを意味しています。更に、特祷は「主イエスの復活によって罪と死の古い支配の力に打ち勝ち、主イエスにあって万物が新しくされた」とあります。主イエスの復活によってすべてのものが罪から解放されて赦され、死の不安、恐怖から解放され、神に受け容れられ、神に愛され、永遠の命を賦与される新しい存在とされるのです。これこそが主キリスト・イエスによって与えられる神の賜物なのです。
さて、主イエスの栄光の座に連なることを期待して自分の仕事を捨ててついてきた十二弟子たち。最後の晩餐の時、主イエスが弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われると、彼らは「たとえ、ご一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と答えました。にもかかわらず、彼らはイエスがユダヤ教の当局者に逮捕されると、イエスを見捨てて逃げてしまい、イエスの関係を否定し、主イエスを裏切るのです。やがて、主イエスは十字架につけられ、殺されます。
イエスを裏切った弟子たちは自分の弱さ、醜さ、惨めさ、自己中心的な罪深さにさいなまれ、絶望すると共にユダヤ教当局者の追跡を恐れながら、時を過ごします。その彼らに復活の主イエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と語られ、裏切りを咎めることなく、彼らを受け容れます。そして、全世界に福音を宣べ伝えるように命じられたのです。弟子たちは主イエスの死と復活を通して神に愛され、罪が赦され、神にある生きる喜びを実感し、神にある希望を見いだし、主イエスの復活の証人となって福音を宣べ伝える者となっていったのであります。私達も主イエスの恵みに与かり、喜びと感謝と希望に満ち溢れた信仰と証の生活を送りたいものです。