「見ないのに信じる人は、幸いである」
司祭 エレミヤ・パウロ 木村直樹
使徒トマスは、復活のキリストが、弟子たちの前に現れたとき、その場に立ち会うことができませんでした。そして、彼は復活のキリストに出会った使徒たちの証言を信じることができませんでした。彼は直接、復活のキリストに出合うことを求めたのです。
このトマスの態度は、不信仰でしょうか。わたしたちは通常、むやみに人の言葉など信じないものです。ましてや、これまで世界であり得なかった出来事である死者からの復活と言うことを、簡単に信じなかったトマスに、わたしは人間としての誠実さを感じます。人の言葉を信じるのではなく、彼は、自分で納得して信じたいと願ったのです。

最初の復活の出来事から八日目に、キリストは、このトマスの前にも、復活のみ姿を現れされました。こうしてトマスも信じる者へと変えられました。さらにキリストはトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」との言葉を与えられます。
トマスは、このキリストによって与えられた言葉を生きる者となりました。すなわち多くの人々が、復活のキリストを見ないで信じることができるようにする働きです。トマスにとって、このキリストの言葉は、非常な課題となったと思います。彼自身、復活のキリストを見なければ、信じられなかったのですから、他の人々を、信じる者に変えることの困難さを、彼は、他の使徒にも増して、感じていたに違いないからです。
無論、その困難は、他の使徒たちにとっても同様であったと思います。彼らは、主イエスが十字架にかけられたとき、その近くで母マリアと共にいたヨハネを除けば、自分の身の安全を図って、遠くからそれを眺めていました。自らの死を恐れ、ただ悲しみながら、主の死を見つめることしかできなかったのです。
しかしその使徒たちが、エルサレムの神殿の境内で、キリストの復活を宣言します。「人間に従うよりも、神に従わなければなりません」と、彼らに敵意を抱く大祭司の前でもどうどうと復活を証言するのです。
これが、復活を証しするということだと思います。自分が変えられたこと、死を恐れる者から、それを恐れない者へと変えられたこと、これが、人々を、見ないで信じる幸いへと導いていったのです。
復活の出来事は、人類にとって最大の福音です。わたしたちクリスチャンにとって、最高の喜びです。そして、主イエスは、わたしたちにこの喜びを、すべての人々と共に分かち合うことを求めておられます。「見ないのに信じる人は、幸いである」という幸いへと導くように求めておられます。
使徒たちは、この言葉を生きるために、どのように行動したのでしょうか。わたしたちは知っています。主イエスの十字架の下にいたヨハネを除いて、すべての使徒が、この言葉を生きるために、死んだことを。復活の証言の故に、殉教したことを。
復活のキリストに出会った使徒たちは、その出来事を人に伝えるために、自分たちの命を捨てたのです。彼らの証言の土台に、教会が建てられました。彼らの死を礎石として、教会が建てられました。
そして現代の教会も、そしてすべての信徒も、見ないのに信じる幸いを人々に伝える使命を持っています。この使命を生きることを求められています。