主の平和
司祭 ヨハネ 松浦 信
最近の世界情勢で「本当の平和とは何だろう」と考えるのは、わたしだけではないと思います。 六月三〇日の聖霊降臨後第六主日(特定八)の福音書(マタイ一〇・三四―四二)において、イエス様は平和について述べておられます。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と。平和ではないものを、もたらすために?来られたとのことです。
しかし一方で、ヨハネによる福音書では、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(一四・二七)と教えておられます。一見矛盾するようですが、わたしたちが考えているような平和とイエス様がくださる平和とは違うのかもしれません。
先ほどのマタイの福音書では、家族が敵となること、家族よりもイエス様を愛すべきこと、また預言者などイエス様が遣わされた人を受け入れるものは預言者と同じ報いを受けることが述べられております。
イスラエルとユダという二つの王国があった旧約の時代では、預言者をかくまうということは、大変な冒険でした。預言者とともに、かくまう者も命の危険にさらされたからです。ですから預言者をかくまうことは、自らの確信と覚悟が必要だったと思います。
ところでわたしたちの日常はどうでしょうか。家族、職場、学校で、ご近所で、誰かが意見が合わないときに、自らの確信を述べているでしょうか。人間の力と能力を頼り、妥協の結果の平和を作り出すのでしょうか。または、他者と違うことを表明することを恐れるでしょうか。 わたしたちは、自分の弱さ、不甲斐なさをよく知っています。肉親や仲間との関係を壊したくないと思うし、壊れると平和を失ったと思うのです。
イエス様は、イエス様に敵対するファリサイ派の人々に痛烈な批判を福音書のいたるところで述べられております。わたしは、無防備であるイエス様がファリサイ派の人々を議論で打ち負かせるためにこのような挑発的な発言をされたのではなく、愛と誠意をもって語られたのだと信じたいのです。 「どうせ言ってもわからない奴らだ」と言って切り捨てるのではなく、たとえ身の危険が及ぼうとも【伝わる】ことを祈りながら語られたのだと信じます。
相手の意見をよく聞き、相手に合わせていくことも時には必要でしょう。でもそのことは、キリストにある愛と誠意のために祈りつつ行うのであり、人間の視点に立つ平和のためではないと思います。 イエス様は、預言者を小さい者としておられますが、少数の意見をもつ者こそわたしたちにとって預言者なのかもしれません。 神の義のために、いかに勇気をもって戦うかではなく、相手に誠実に語り聞くことができるよう、神様に愛を祈り求める、このことが平和の実現だと思います。
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ五・九)
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このページの曲は、聖歌第189番(リードオルガン)です。