重要な律法(おきて)
司祭 パウロ 鈴木伸明
十月二七日の日課であります特定二五の福音書、マタイによる福音書第二二章三四節から四六節は、主イエスが律法の専門家およびファリサイ派の人々と議論をされた箇所が選ばれています。この物語は主イエスの受難を記念する聖週中の火曜日の出来事であったとされており、この日のことを「議論の火曜日」と呼んでいます。
復活を否定していたサドカイ派の人々が主イエスに言い込められたと聞き、ファリサイ派の人々は一緒に集まりました。ファリサイ派の人々は主イエスと同じように律法を守ろうとしてはいたのですが、主イエスが神の栄光を現すために律法を守るべきことを教えていたのに対し、ファリサイ派の人々は自分たちが人々から尊敬されるため、自分たちの利益のために律法を守ろうとしていたのでした。 彼らが主イエスから批判されるのは当然でしたが、悔い改めようとはしなかったのです。
律法の専門家が、最も重要な掟は何かと尋ねます。主イエスは『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』と申命記第六章五節の教えを引用され、続けて『隣人を自分のように愛しなさい』とレビ記十九章十八節の言葉を引用され、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とすべての律法と預言者の教えは、この二つの律法に集約することが出来ると言われたのです。
律法の専門家は、それぞれの律法については熟知していたでしょう。しかし、この二つを合わせて、すべての律法と預言者がここに集約されるというのは主イエスによって初めて示されたことだったのです。
次に主イエスはファリサイ派の人たちに対し、救い主メシアは誰の子であるかと質問されます。彼らはイザヤ書の預言から、ダビデの子孫からメシアは誕生すると答えました。しかし主イエスは、救い主はこの世的な単なるダビデの子孫として誕生するのではなく、ダビデの主として来られたことを示されたのです。
最後の部分はこう結ばれています。「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」。 この言葉は身震いするような冷酷さに満ちています。彼らは懺悔するよりも、主イエスを殺す決心をしたのでした。彼らは二日後主イエスを捕らえさせ、群集を扇動してその翌日十字架にかけてしまったのです。自己中心の罪の持つ恐ろしさを実感させられる場面です。
九月十七日に行われた日本と朝鮮民主主義人民共和国の首脳会談で、日本人拉致が現実に行われたこと、そして八人もの人がすでに亡くなっていたという衝撃的な事実が明らかになりました。本当に胸の痛む思いをしながらも、かつて日本も多数の韓国朝鮮の人々を強制連行し、その償いが十分なされていないこと、また拉致されたのは日本人のみではなく、韓国の人々もまた拉致の被害に遭っていたことを考えるとき、自分の国の被害だけを論じるわけにはいかない、被害・加害の両面を認めて、自己中心を離れつつ歩んでいかなければ本当の解決は出来ないことを知らされます。
主イエスを十字架につけた責任を、今私たちは改めて問われているのではないでしょうか。
北関東教区時報のページへ戻る
このページの曲は、聖歌第448番です。