「わたしの避けどころ」

司祭 山岸樹郎

 もう、かなり前の事だが、学生時代の友達にあった時、お定りの戦争の話になり、相手が満州(中国東北)にいたのに、シベリアに行かずに済んだと話した。私がそれに乗って、中国に行ったが、終戦時、南京の近くにいて、助かった。運がよかったなどと答えた。そばにいた学校にのこって教授になっている友が「牧師さんが、運がいい悪いなどといってはいけない。神さまの摂理という言葉を使ったほうが相応しい。」と、言われた。

 私は幼児洗礼だから、ほぼ80年間、神さまのお恵みを受けて、お守りのうちに信心生活を送ったことになる。神さまの摂理の数々を身にしみて受けとめている。しかし、神さまのお助けが非常に現実的で、具体的と感じられるのは中国における五年有余の生活の中だったと思っている。私の出かけた1941年1月は日米開戦の前で、世情はそんなに厳しくもなく、駅では、「神ともにいまして」の聖歌で送りだされた。それが今まで考えたこともない様な生活に抛りこまれたのである。

 初めての兵営生活は自分が追いまわされて動物の様に感じられた。肉体的に機能しないことがまづ問題だった。重い兵器の取り扱いに苦しんでいる私を見た中隊長がロシア語の修練生になるように勧めたが、結局、連隊の面接で駄目になった。この事も、神さまの佑助とお導きが胸に迫ることである。現役が終り、中国中部に行ったが、戦場としては、比較的安穏な生活があった。

 1945年8月14日(のちに終戦前夜であることが判明)、私は南京近くの部落で、民家の土間に寝かされ、マラリヤの高熱に喘いでいた。決戦が近く、病気などで、足手まといのものは、血祭りに挙げられるのではないかという想いが頭をかすめた。長い間、教会生活がなかったが、信者らしく召されたいと願った。その夜の激しい銃声は終戦を察知した国府軍と中京軍が南京一番のりを争っての内戦だった事があとでわかった。夜襲と思い足をひきずりながら、退避した丘の上で、行き交う光の軌跡を不思議な気持ちで、眺めていた。

 何といっても神さまの摂理を大きく感じるのは、兵士として、外地にいることより、キリスト教への弾圧をまぬがれた事である。

 先日、少年Hを観劇した。興味深い展開で大いに堪能した。少年Hを読みはじめた頃から、自分の知らない戦時下内地の社会事情を知ることが出来たのは何よりだった。
 特に、キリスト教排撃の嵐の中で、弛まず伝道に励む、少年Hの母親の姿には感動した。

 ただ、山中恒という人の「間違いだらけの少年H」によると、『Hの母の「天皇陛下は神様やない、神様は天にまします我等の父一人です。」の言葉は余りにも後世楽で、当時の激しい弾圧からすれば、現実性がない。という』。見方の違いといってしまえば、それまでだが、戦時下、厳しい信仰の戦いをした人々がいた事は確かなのだ。

 若し私が若年教役者として内地にいれば、当然うけたであろう、キリスト教弾圧からまぬがれたことに、神さまの強いみ守りを感じる。(詩91−2)


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このページの曲は、聖歌第448番です。