| 今月の説教要旨 2002年11月 |
| 2001年11月4日(聖霊降臨後第22主日) |
『ザアカイの回心』
今日の福音書はよく知られたザアカイの回心物語です。新約聖書の回心物語としては、放蕩(ほうとう)息子の譬え、パウロの大回心、ローマの百人隊長の回心、重い皮膚病の人の回心の物語など多く見られます。それらの中でも放蕩息子の回心とザアカイの回心物語は、回心に至るまでのプロセスやその結果まで極めて印象深く、劇的に描かれています。
放蕩息子の回心の物語とザアカイの回心物語をくらべてみますと、前者は、放蕩息子の父即ち神様の側の喜びが中心に描かれているのに対して、後者は、人間の側の喜びを中心として描かれているようです。
ザアカイの回心物語のうち、特にザアカイの喜びがどれほど大きな喜びであったかを理解する上で、どうしても知らなければならないことがあります。それはザアカイがどういう境遇にあったかという点です。
彼は徴税人(取税人)の長であったということです。徴税人はユダヤ人でありながら、ローマの手先となってユダヤ人から税金を取り立てる役を持つ者で、従って、ユダヤ人からは憎まれ、さげすまれ、忌み嫌われる立場にありました。徴税人は決められた額以上に取り立て私服を肥やし、金持ちであったから、ユダヤ人達からは売国奴扱いされても不思議ではなかったと思います。そして当然村八分となり、友も居ない孤独そのものの中に居た人であったでしょう。
おまけに「背が低い」という身体的ハンディがあり、劣等感を抱いていたと思われます。これらのことを理解する時、超人気者のイエス様から声をかけられ、自分の家にまで宿って頂き、和やかな交わりを味わえたということは、信じられないほどの大きな喜びがあったことが容易に理解することが出来るのです。そして、その喜びがザアカイの人格を大きく変えたのです。
小さい頃日曜学校で「チビのザアカイ」の紙芝居に親しみ育ってきました。当時から深い印象を抱いてきました。子供が興味を持つお話というのは、子供の頭と心の中でどんどん絵になって広がるようなお話で、そうでないと素話でも子供はちゃんと聞きません。皆さんなら、このザアカイ物語を絵に描くとしたら、どんな場面を描きたいと思いますか。木に登ってザアカイを待ち受けるザアカイの姿か、意地悪な人達に蹴とばされているザアカイの姿か。私なら、人垣の後ろから跳び上がってイエス様を見ようとしている姿を描くかもしれません。子供の頃同じような経験が何度もあるからでしょうか。ザアカイの気持ちが手にとるようにわかる気がします。
ザアカイの喜びは、"まさか"と思うイエス様から声をかけられたことにあるように思います。かつてある教会で、よく教会の礼拝に出席される婦人(未信徒)がおられたのですが、ある日私が「ぼちぼち洗礼を受けては…?」と語りかけたところが、彼女は涙を流しながら喜んで下さいました。何年も教会に来ていながら、誰も洗礼をすすめることが無かったそうです。「まさか、牧師先生が洗礼を、と言って下さるとは・・・・うれしい」と言われたのが忘れられません。間もなく彼女は受洗されました。
回心とは神の恵みに対する応答です。しかし、回心の出来事は神の導き、神の恵みによってひき起こされたものであると考えるのが妥当でしょうが、回心にいたる人間側にもその要因がありそうです。木に登ってまでイエス様を見ようとするザアカイのように、人間側の関心熱意なども大切な要因です。
この物語を読んで私達自身にも問いかけてみましょう。信仰生活の中で、主から語りかけられ、働きかけられることに「まさか」と思ったりしてはいないでしょうか。跳び上がって木のうえに登ってまで主を見たいという関心、勇気、熱意を抱いているでしょうか。
私たちも信仰の喜びを持ちたいと願っている者達です。そのために大切なことは、神の側からの語りかけ、働きかけを疑わず信じることだと思います。そして神の恵みに対して素直に応答、表現できるようになることが大切なのではないでしょうか。