今月の説教要旨
2001年12月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士
2001年12月2日(降臨節第1主日)

『神の謹み』

 今日から「降臨節(アドベント)」に入りました。教会歴の新しい一年の始まりです。また一方で、主のご降誕への心の備えをする期節でもあります。

 降臨節は祭色が紫色で、「謹み」を表します。結婚式もひかえ、祭壇の花も飾らず、礼拝では「大栄光の歌」が省略されます。これらは全て「謹み」を表す習慣から来ていると言っていいでしょう。クリスマスは「喜び」の日ですが、その日までの降臨節は、いわば仏教での「喪に服す」習慣と似ているところがあります。

 年末になると、その年に御不幸があった家族の方から、「喪中につき年末年始のご挨拶を御遠慮申し上げます。」というハガキがよく届きます。不幸があったから「おめでとう」は不要だとし、謹み深くするというもののようです。

 それでは降臨節はなぜ「謹み」のうちに過ごすのでしょうか。大斎節、受苦節も「謹み」の期節です。もちろん、キリストの十字架とその苦しみの期間ですから当然であります。余談ですが、イスラム教では今「ラバダン(断食月間)」の最中だそうですが、これも一種の神への「謹み」の時なのでしょう。でも、十字架の前の「謹み」は当然と考えても、降臨節は、降誕という「喜び」の日を待つ期間ですから「謹み」は不要だとさえ思えます。

 しかし、神の御子が与えられるという事実は、真に尊厳極まりない事柄で、罪人である私たちの中に神ご自身が来てくださるという事実に他ならないからです。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピの信徒への手紙2:6-7)

 聖パウロはキリストの降誕の事実を見事に表現し、尊厳極まりないものとして受け取っていることがよくわかります。「自分を無にして」という言葉は、神ご自身の謙遜、へりくだり、「謹み」を意味しているのです。今朝の特祷でイエス・キリストは……謙遜なみ姿でこの世に来られました。」と表現しているとおりであります。

 神と人間との関係は、アダムとイブ以来、人間の罪によって損なわれています。神に祝福されたものとして造られた人間が、罪を犯し、自ら救いようもない状態に陥っています。神とイスラエルの関係は、そういう神と人類の関係をよく示していると思います。「ごめんなさい」とあやまらねばならいのは人間の側です。にもかかわらず、神は自ら人類に「ごめんなさい」を言う形で、「自分を無にして」卑しい人間の姿になって、この世に来てくださったのです。それがキリストの降誕であり、従って、キリストの降誕そのものが、神の謙遜であり、神の「謹み」なのであります。

 そういう意味から、神の「謹み」の行為を受ける私たち人間にとって、キリストの降誕を「謹み」をもって待つのは当然のことと言わねばなりません。換言するなら、キリストの降誕の事実は、神の深い憐れみと赦しの事実、即ち、神の愛の行為としての事実だと言うことです。なんとありがたい恵みでしょうか!! だからこそ、私たちはこの事実を「謹み」をもって、大きな「喜び」の日、主の御降誕を待つのです。

 この神の謙遜と「謹み」の事実、神の尊厳に満ちた事実を、あのエリザベトとマリアが真実の「謹み」の心をもって受け入れ、その成就を待ったことは、想像に難くありません。このような大切な時期を迎えた私たちの上に、主の豊かな導きを祈りましょう。