今月の説教要旨
2002年1月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士
2002年1月1日(主イエス命名日=元旦礼拝)

『新しい酒・新しい革袋』

 新年を迎え、新しい年への主の祝福と平安をお祈り致します。

 既にクリスマスにキリストの御降誕を祝い、新しい生命への道を開かれた神の業を賛美しました。考えてみれば、キリストの降誕から聖霊降臨に至るまでの聖書の福音は、他ならぬ「新しい命」への招きであり、その意味で、キリスト教信仰は徹頭徹尾「新しい命」が課題となっていると言えるでしょう。

 その新しい命への招きは具体的には、聖餐式において開かれており、キリストの血に陪ることを通して、新しい命を受けるのです。聖餐式・洗礼をふくむ教会の七つのサクラメント(聖奠)は、神によって立てられたもので、それらは新しい命への再出発点となる機会、道であります。

 キリストの教えの中に、「だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。…新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)という言葉があります。「新しいぶどう酒」とはキリストの福音・キリストご自身のことです。従って聖餐式でいただくぶどう酒はキリストの血であり、キリストご自身、すなわち、神の命そのものです。神の命の養いを受けることによって、私達はつねに新しい命への更新へと導かれます。教会はこうして聖餐式・洗礼を中心としたサクラメントによって、一生涯日々、新しい命への更新に生きるものだと言えるのです。

 そこで、入れ物の革袋としての私達自身が新しいぶどう酒を受け入れるにふさわしいものであるか、古い革袋でないかどうかが問題となります。新しいぶどう酒は発酵力がつよいので、古い革袋は破れてしまいます。新しいものには新しいものが必要だと言うことです。神の恵みは常に新しいものなのに、現実の私達は意外なほど保守的なため、古い革袋のままで止まっていることが多いのではないでしょうか。

 羊飼いたちが「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(ルカ2:16)という聖句を黙想する、ある若い司祭のクリスマス・メッセージを読んだ。飼い葉桶は神とキリストの「貧しさ」のしるしであり、幼子の誕生は“最高の”「貧しさ」によって整えられたものだと言うのです。どこからか調達した新品のものではなく、使い古されたものであるが、きれいにされ、ワラを一本一本丁寧に敷き詰められたものだったと想像されます。他のどんなものによっても取り替えることのできない“最高”の「貧しさ」によって整えられたものに違いないと言っています。

 神の御子の誕生は、そのような“最高”の「貧しさ」によって整えられたもの。私たちは、この“最高の”「貧しさ」によって整えるという神の業、教会の業を忘れることはできません。私たちの人生にも、また教会にも、いろいろな意味の「貧しさ」がありますが、それを恥したり、悔いたりすべきではありません。むしろその「貧しさ」を大切にせねばなりません。その「貧しさ」によって「新しい命」への招きの場として教会が存在し、そして教会は人々のために「整える」ということを大切にすべき所でしょう。

 新年早々の聖餐式に陪り、新しい酒、新しい命の養いをいただき、神によって生まれる新しい命への世界へと導かれ、新年の豊かな主の祝福にあずかりたいと思います。