今月の説教要旨
2002年3月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士
2002年3月3日(大斎節第3主日)

『生きた水を求めて』

 今朝の旧約テキストの物語りと福音書のサマリヤの女の物語りは、水の話で共通しています。

 旧約の物語りは、イスラエル民族がエジプト脱出の途上で水に飢え渇いたとき、神がモーセに杖で岩をたたいて水を出させ、イスラエルの民を救われた話です。エジプト脱出途上のイスラエルの民にとって、パンの問題と同様、水の問題は死活に関する問題でありました

 福音書の話は、「ヤコブの井戸」というところでのサマリヤの女とイエス様の出会いの話です。イエス様が旅の疲れで喉の渇きを訴えられ、異邦人のサマリヤの女に水を求められました。このときの出会いによって、二人の間で会話が進められ、イエス様は女に、自らが「生きた水」であることを証され、女はイエス様を「救い主」として告白するまで導かれた上、女は他の人々にも伝道し、多くの者がイエス様を信じるようになりました。

 “渇き”について表現された聖句は多い。

 「谷川の水をあえぎ求める鹿のように、神よ、わたしの魂はあなたを慕う」(詩42:1)

 喉の渇きよりももっと深刻なことは、人間の魂の飢え乾きの問題です。

 「義に飢え渇く人々は幸いである。その人はたちは満たされる。」(マタイ5:6)

 人は神の義に飢え渇きます。神の慈しみと愛を強く求めます。そして神は人間の魂の渇きをいやされます。

 「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。」(ヨハネ29:28)

 十字架の七聖語の一つです。単なる喉の渇きを訴えられたのではなく、十字架の死によって、神と完全に一つとされることへの渇きを訴えておられます

 人は各々の人生の中で様々な疲れと渇きを抱いています。親子問題、夫婦問題、子供教育の問題、職業や仕事の問題、病気の問題等々。いろいろと悩みがあり、疲れ、魂の飢え渇きを覚えます。人は皆孤独である故に魂の渇きを抱いていますが、結局これらは皆、神への渇きであります

 従って、教会に来ている人々も、何らかの意味で魂の飢え渇きを抱き、そのいやしを求めている人々であると言えます。信徒は、神への渇きを覚え、「生きた水」「生きた神」を求めている人々です。

 そのような私たちはどのようにしていやされるのでしょうか。礼拝は人間の魂の飢え渇きをいやしてくれるものです。礼拝の中で、祈りや御言葉、聖餐のパンとぶどう酒を通して、私たちは魂の飢え渇きをいやされます。聖餐式こそいやしの場であります。

 「うえかわきて みもとにゆく
  いのちのかて あたえたまえ」(古今聖歌集第223番)

 礼拝・聖餐を通じて「生きた水」である神に出会います。礼拝を通じて「生きた水」「生きた神」である主イエス様に出会って行くことが大切なのであり、サマリヤの女の物語りは、その出会いについて教えてくれているのです。

 大斎節の最中。大斎は、「生きた水」であるイエス様と出会い、「生きた神」と出会って行く訓練の時ではないでしょうか。