| 今月の説教要旨 2002年4月 |
| 2002年4月7日(復活節第2主日) |
『聖書は平和のメッセージ』
今朝の福音書(ヨハネによる福音書 20:19〜31)を見ますと、主の復活当日の夕方、不安におののきながら、一軒の家に集まり隠れていた弟子たちのところに、復活されたイエスが現れ、「あなた方に平和があるように」と三度も語りかけられ、八日後、疑い深いトマスも同席した同じ集まりの中に再びイエス様が現れ、同じ言葉を語りかけられたことが書かれています。
イエス様誕生のみ告げがあったときも、天の軍勢は、「いと高きところには神に栄光、地には平和がありますように」(ルカによる福音書 2:14)と歌いました。
また、生前主イエス様は、「互いに平和に過ごしなさい。」(マルコによる福音書 9:51)と語られています。
さらに十字架の前の弟子たちへの説教の中でも、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネによる福音書 14:27)と約束されました。
こうして見ると、聖書のメッセージは、キリストが平和をお与えになるお方として一貫して語っていることが分かります。そして、そのつながりで、主イエス様の誕生・十字架・復活は、平和の成就のメッセージとしての語りかけであることも分かります
いま、平和について思うとき、アフガニスタンをめぐる戦争、イスラエル・パレスチナの戦争などによる犠牲者・被災者、何十万人、何百万人もの難民のことについて私たちの心が痛みます。
イエス様はどんな意味を込めて「あなたがたに平和があるように」と語られているのでしょうか。<平和>はへブル語で<シャローム>、今日でもユダヤ人たちの間で、「こんにちは」、「さようなら」のあいさつの言葉として用いられているそうです。イエス様はそんなあいさつの言葉として言われたのでもないし、単に「戦争がなくなるように」との意味だけで言われたのでもないと思います。
聖書の「平和」は<神による平和>です。「主にある平和」は、地上の平和を意味するだけでなく、人間一人一人の平和、しかも、外面的な平和だけでなく、内面的な魂の平和をも含んだ一切の平和を意味しています。真の平和とは、神との関係にあって一人一人の魂の深みにまで生み出されるもので、だから、聖書のメッセージも一貫して、この神にあっての平和として語りかけられているに違いないのです。
この福音書の記事から学ぶべきもう一つの大切なことは、創造主である神が人間を創り、鼻から命の息を吹き入れられたように、復活のイエス様も、弟子たちとともに私たちにも、「息を吹きかけて」聖霊と力を与え、平和のために派遣されているということです。
今週もイースターの在宅聖餐のために何軒かを訪問し、ご高齢者・病人に聖餐を差し上げ、「平和があるように」と祈った次第です。神様もイエス様も、私たちのために常に「平和があるように」と祈ってくださっています。そして復活の主イエス様は私たちを励ましてくださっているだけでなく、同時に、他者の平和のためにも私たちが派遣されていることを心にとめねばなりません。
病床聖餐、在宅聖餐、家庭訪問で、その家の者の平和のために祈る権限が与えられていることは、牧師にとっても大きな喜びです。イエス様が弟子たちを伝道に派遣されるときにも、「その家に入ったら『平和があるように』とあいさつしなさい。」(マタイによる福音書10:13)と教えられたのです。牧師も、信徒も、他者の平和のためにも祈り、働くものとなって行きたいものです。
「この世で小さくされている人々と一緒に考え、歩むための霊性を養ってきたいと思う。」と言って聖公会神学院に旅立たれた、当教会の信徒・田宮紘兄のためにもお祈りしましょう。