今月の説教要旨
2002年6月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士
2002年6月2日(聖霊降臨後第二主日=特定4説教要旨)

『本当の人間の正しさを求めて』

 わたくしの長男が生まれたとき、イザヤ書第九章の「霊妙なる議士」ということば(前の口語訳)、また、文語祈祷書の洗礼の時の「忠義なる兵卒」ということばをヒントに「義士(ただし)」と命名しました。「義」は神の義(ただ)しさを表すことばです。神の義しさを持った人になって欲しいという親心からこのような名前を付けたのです。

 最近の人間、社会、国家、その正しさはどうなっているのかと思うことばかりです。イスラエル・パレスチナ問題、アフガニスタン等の難民問題、パキスタン・インドの対立問題、宗教戦争の問題、この前の北朝鮮人亡命問題、どの問題でも、各々の国が自己正当化し、相手を非難しあっています。

 国内でも、政治では各政党が各々自己正当化し、与党も野党も責任のなすりつけあいばかり。狂牛病問題とそれに伴う不正問題続出。国家も企業も人も、その正しさを失っています。神戸須磨海岸での圧死事故も、警察も請け負い業者も自己正当化するばかりで、本当の正しさを失ってしまった結果でした。親子殺し、児童虐待死、例を挙げたらきりがありません。人は個人的にも社会的にも国際的にも、その正しさを失い、世界はもはや、「正しさ」についておかしくなってしまったようです。「正しさ」を失うことは「罪」です

 「正しい」と言うとき、それが何に対して正しいか、何にかなっているかという問題が基準になりますが、倫理に対しての「正しさ」も社会正義に対しての「正しさ」も失われています。しかし、失っている最も大切な「正しさ」は「神に対しての正しさ」ではありませんか。

 聖書ではこれを「神の義」ということばで教えられています。聖書の神は「義なる神」(正しい神)であります。

 昔、神はイスラエル民族に「律法」を与え、これを守ることによって「神の義」を行うように命じたのですが、彼らは自分の意志を尊重し神の意志である「律法」に従わず、不義ばかり重ねて生きていました。預言者たちが世に出て「主に帰れ」と熱心に呼びかけてもらちがあかず、詩編記者も「生ける者はひとりもみ前に義とされない。」(詩編143:2)と告白せざるを得ない有り様でした。

 このような人間の世界に、神はキリスト様をお遣わしになり、究極の「神の義」を表されました(ローマの信徒への手紙3:21参照)。それでも人々はこの神の義・キリスト様を信じず、受け入れず、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受け入れられなくなって」しまいました(ローマの信徒への手紙3:23)。それでも義なる神はこの不義な人間を愛され、キリスト様を十字架につけ、その死によって人類の不義(罪)を自ら償い赦し、十字架を通してもう一度神の義(神の正しさ)に生きる道を備えられたのです。聖パウロは、律法を守り通せない人間の弱さと罪を説き、十字架の恵みを信じる信仰によって、人はその不義を赦され、義とされ、本当の正しさを持つことができると一生懸命教えたのです(ローマの信徒への手紙3:28参照)。これが神学上「信仰による義認」と呼ばれているものです。

 今日の福音書(マタイによる福音書7:21-27)もよく読みましょう。口先だけで主を敬ったり、自分を正当化し自分の意志を行うのではなく、神の意志(神の義)を「実行」すべきことが教えられています。いずれにしても、わたくしたちは主の十字架の恵みを信じる信仰によって救われ、神の義を実践してゆかねばなりません。

 いろいろな意味での「正しさ」が失われている世界状況の中で、わたくしたち人間の心に最も回復せねばならないのは「神の義」、「神の正しさ」ということではないでしょうか。