| 今月の説教要旨 2002年7月 |
| 2002年7月7日(聖霊降臨後第七主日=特定9説教要旨) |
『だれが救われるのか』
本日の使徒書(ローマの信徒への手紙7:21-8:6)で聖パウロは「だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(7:24)と言っています。
「富める青年」がイエス様に「永遠の生命」の秘訣を問うたとき、「財産を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」という厳しい答えが返ってきたので、青年は、<とてもそんなことはできない>と思い、「それではいったいだれが救われるのですか。」と言いました。(マタイによる福音書29:16-30参照)
「だれが救われるのか」はわたくしたちにとってもいつも大きな課題ではないでしょうか。
今朝の福音書(マタイによる福音書11:25-30)でイエス様は「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(25節)と言われています。
イエス様はガリラヤから伝道を開始されましたが、故郷の人々には受け入れられませんでした。旧約の預言者やバプテスマのヨハネが神の国の到来と悔い改めを迫ったにもかかわらず、イスラエルの人々は耳を貸さず、神の子・イエス様にさえ耳を傾けませんでした。ユダヤ教の指導者の祭司たち、律法学者たち、ファリサイ派の人々等「知恵ある者」、「賢い者」はその代表でありました。
反対に、どのような人々がイエス様を受け入れ、救われていったのかというと、ガリラヤの漁師、取税人、罪人、病人等でした。これらの人々はほとんど知恵・教養・地位・財産を持たない人々、何も捨てるものを持たないような「幼子のような者」たちでありました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(28節)
「わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(29節)「幼子のような者」とは「疲れた者」、「重荷を負う者」、「軛を負う者」たちで、このような人々に、神の奥義・救いの奥義が示され、その喜びにあずかっていったのでした。人生には常に各々の悩み・苦しみがあり、わたくしたちも各々、重荷・軛を負って歩む者として見てくださっています。
イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカによる福音書9:23)とも言っておられます。わたしたちが背負っている十字架・重荷・軛を自分で背負ってついて来いと言っておられます。厳しいことばで前のことばと反対に聞こえます。決してそうではありません。確かに自分の十字架は自分で背負わねばなりませんが、その苦しみ・重荷を背負ってイエス様の前に行くだけでよいのです。そうすれば、休ませていただけ、安らぎ、救いを与えられるのです。自分の十字架を背負ったままでイエス様の前に行きさえすれば、イエス様ご自身がそれを背負ってくださるのです。否、既に背負っていてくださることが知らされます。主ご自身が私たちの十字架をゴルゴタの丘へ背負って行ってくださる故に、主の軛は「負いやすく」「軽い」のです。
いつか紹介した『足跡』という詩をもう一度思い起こしましょう。
「…あなたはどうして時々わたしと一緒に歩いてくれなかったのですか。どんな時でも一緒に歩いてくださると約束されたではありませんか。しかも、わたしが苦しんでいるときに限って一緒に歩いてくださらなかったのですね。どうしてなのですか。
すると主は答えて言われた。『いつも一緒に歩いていたよ。足跡がないのは、あなたが苦しんでいたとき、わたしはあなたを背負って歩いていたからだ』」主に感謝!!