| 今月の説教要旨 2002年9月 |
| 2002年9月1日(聖霊降臨後第15主日=特定17説教要旨) |
『神のことを思う心』
先主日、ペトロの主への告白の話を通して、<教会は信仰の告白の共同体である>ことを学びました。今朝の福音書はその続きの記事です。『このときから、イエスは……苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。』(マタイによる福音書16章21節)
いわゆるガリラヤ伝道を終えて、本格的な弟子たちの教育が始まったのです、その転機がペトロのあの勇敢な告白の出来事になったのでした。主を「メシア」「神の子」と告白したペトロが、主の十字架・復活の予告に対して「とんでもないことです」(22節)と否定しています。そのことで、ペトロは「サタン」呼ばわりされてイエス様からひどく叱られています。「神のことを思わず、人間のことを思っている」(23節)と。
ペトロの主を思う心は、同情であり、ヒューマニズムだったのでしょうか。神の国成就は、そのような<人のことを思う心>などで行われることはできません。主の十字架と復活は神の業なのです。人類の救いに<無くてならぬもの>でした。ペトロはまだそのことが分かっていないのです。しかし、ペトロのこの思いはイエス様ご自身の心の中にかつて起こった誘惑であったと考えられます。「サタンよ、引き下がれ。」(24節)は、あの有名な荒野の誘惑の話を想起させるからです。(マタイによる福音書4:1-11参照)
<人間のことを思う心><神のことを思う心>とはどういうことでしょうか。
<主の祈り>も前半は神のことを祈ります。み名が聖とされ、み国が来ること、みこころが地にも行われることを祈ります。神の業、神の目的が成就されることを一番大切にして祈るのです。聖書や、キリスト教の福音は、人を大切にし、人間を救う使信です。しかし、それは神によってのみ果たされ得る事柄を忘れてはなりません。<神のことを思う>とはそういうことです。
チャールトン・ヘストン主演の映画『わが命つきるとも』というのがありました。それは、英国教会独立、宗教改革の原因ともなったヘンリー8世の離婚・再婚問題に対して、命を張って勇敢に、信仰に妥協せず、同意を拒否したかどで、ざん首刑になったトーマス・モアを描いたものです。
ヘンリーはこの問題にからんで、ローマ教皇支配権の中で、離婚、再婚を強硬に認めさせようと国内聖職団の力を用い、教皇に対抗させました。無論、教皇の反対にあいました。そこでヘンリーは、いわゆる<首長令>を発布、自らを<英国教会の首長>であることを宣言、ローマ教皇へ収める聖職税の拒否、アンとの間にできた子に王位を与えるという<王位継承令>を次々と英国聖職会議を通過させたことで、ついに、ローマ教皇は逆にヘンリー王を教会から破門しました。
これらを通して、英国は政治的、宗教的にローマから独立、国家と教会の関係に新しい時代を開き、宗教改革の原因ともなりました。このようなヘンリー王の独裁と不道徳に対してトーマス・モアは断固ととして反対しました。そしてそれは、トーマス・モアの信仰の闘いであり「人のことを思う心」より、まさに、「神のことを思う心」からでありました。
トーマスの反対は、あのペトロの告白と同様、信仰から出た勇敢な告白でありました。「神のことを思う心」−それが信仰です。
本日の使徒書に「何が神の御心であるか、……をわきまえるようになりなさい(ローマの信徒への手紙12章2節)とあります。人間的な知恵、欲望、考えを中心に生きるのではなく、「神の御心」(神意)の中に生きることにわたくしたちは招かれています