今月の説教要旨
2002年10月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士
2002年10月6日(聖霊降臨後第20主日=特定22説教要旨)

『信仰の精進の大切さ』

 イスラエルは<主に選ばれた民>であり、教会は<主に選ばれた民>のヒナ型であることが聖書を通して教えられています。

 ところが、イスラエルの民は多くの場合、神に背を向けて生き続けました。モーセや預言者が神の言葉を携えて彼らの前に遣わされたのに、容易に聞き従わず、神の子イエス・キリストがおいでになっても、十字架につけて殺しました。<主に選ばれた民>よりも、却って、救いに遠いとされていた異邦人たちの方が救いにあずかってゆきました。

 こうして、主の教えのひとつ「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイによる福音書 20:16)ということが、どの時代にも現実となって行きました。今日の福音書(マタイによる福音書 21:33〜43)も含めてこの数週間の福音書もこのことをよく示しています。そして主の恵みを受けて今日まで発展してきた教会も、二千年の歴史の中で、いつも様々な問題をかもし出してきました。

 初代教会時代、パウロらによってよき教会が次々と建てられてゆきましたが、どの教会にもいろいろな問題が生じたことは使徒言行録の記録を通じて明らかです。本日の使徒書(フィリピの信徒への手紙 3:13〜21)も、フィリピの教会にもじつは「完全な者」(15節)に関する問題があったことを示しています。フィリピの教会は比較的優秀な教会だったのですが、堕落した信者たちもいたようです。信仰生活に慣れっこになり、居心地の良さだけにどっぷりと浸って、信仰の精進の努力もせず、自らはクリスチャンとしてすべきことは全部していて<完全>だと自認しているような信者たちが多くいたようです。このような人々は、教会とその他の信者たちの成長の妨げにさえなっていたのです。このような教会の問題に対してパウロは「賞を得るために、目標を名指してひたすら走ることです。」(14節)を勧めています。信仰の道が競技に例えられているわけですが、要するに、確かな目標を目指して信仰の精進に怠りがあってはならないと教えているのです。

 近ごろマラソン競技が一種のブームになっていますし、健康上の理由から走ることもブームになっています。複雑な社会での生活に、あたかもストレスの解消を促すかのように、何かじっとしていられない、走ることに追い立てられているような姿も感じさせられます。

 いまや運動会のシーズンです。子供のころ、運動会になれば、100メートル競走や障害物競走で賞品をいっぱい貰って得意満面になっていたときのことが懐かしく思い出されます。人生も信仰の道においても、特別な意味を持ったゴールに一位で入ることを目標にし、そのための自己節制や訓練精進する<たくましさ>も培われる必要があるのであって、子供の頃から運動会で走り賞を貰うことの中で、知らず知らず、そういう精神も学んだり培っていたような気もします。

 信仰生活は主を見つめて走り続ける競技のようなもので、その賞は「朽ちない冠」(コリントの信徒への手紙一 9:25)と聖書は教えています。また、本日の使徒書の中に「わたしたちの本国は天にあります。」(20節)とあります。

 地上の生活は仮住まいのようなものです。なぜなら、わたくしたちは神によって生まれた者ですから、やがて神様のふところに帰るのであって、わたくしたちの本拠は主のみもとだからです。教会はディアスポラ(離散の民)。わたくしたちの人生、この世の生活はディアスポラの旅であり、仮住まいの生活です。したがって、主の故郷に迎え入れられることを望み、それを目当てに走ることだと言わねばなりません。

 信者は一人一人、やがていつの日か、最終的に、主から「お前はどう生きてきたか」を問われるときが来ます。今も一日一日問われているのでしょう。それ故に、わたくしたち教会と信者は、人生と信仰生活が、主が与えられた競技の道として、自らのために主から賞を備えられた道として、その精進、努力の大切さを知らねばなりません。

 主と教会に、自己の本当の<居場所>(アイデンティティ)を定め、単に教会の居心地の良さにどっぷり浸かりきるのでなく、成長のために、主の業に励んでまいりたいと思います。