| 今月の説教要旨 2002年12月 |
| 2002年12月1日(降臨節第1主日説教要旨) |
『教会暦新年度の出発にあたって』
教会暦が変わり、信仰生活の新しい一年の始まりの日を迎えました。
今朝の使徒書(コリントの信徒への手紙一 1章1節〜9節)は<教会の本質>を明確に示されていることに注目し、<あるべき教会の姿>を学ぶことによって一年の歩み始めをしたいと思います。
(1)教会は神によって召された集団であります。(1節)
神の国の譬えの中に、王が王子のための婚宴に多くの人を招く話があります。準備が整って三度び招待を受けた人々が一様に断ったので、街の人々が招かれたというものです。
教会は主が備えられた婚宴の席であり、ことに聖餐式は主がわたくしたちを招いておられる無限の喜びの世界です。教会は主の招きを受けた者たちの集団であり、同時にその招きに応答する者の集団であります。(2)教会は、至るところでキリストの名を呼び求めている人々の集団であります。(2節)
それは、世界至るところで主のみ名を賛美し、礼拝をしている教会の姿を意味しています。教会の命は礼拝です。教会にとって礼拝こそ<息>、<呼吸>です。礼拝のない教会はあり得ません。礼拝する姿こそ、教会の真の姿でありますから、信仰生活の基盤としての主日礼拝を大切にしてきたこの教会の伝統をますます守ってゆきましょう。
(3)教会は聖なる者とされた人々の集団であります。(2節)
「聖められた者」は「別にされた者」とか、「捧げられた者」という意味を持っています。
イスラエルは神の民、聖なる民とされました。それは世俗と区別された民であり、神に特別に捧げられた民でありました。教会はその聖別されたイスラエルを引き継ぐべきものです。そこに、教会は個人的にも、共同体的にも神の恵みを受け、それを伝えるために特別に捧げられているという姿を知ることができるのです。(4)教会はキリストに結ばれたものの集団であります。(5節)
教会はキリストの体、わたくしたちはその肢体です。個人的にはわたくしたちは神の前に欠ける者ばかり。しかし、キリストと一体である故に、「賜物になにひとつ欠けるところがない」のです。教会はキリストの体である故にすべてにおいて豊かです。「無一物のようで、すべてのものを所有して」(コリントの信徒への手紙二 6章10節)いるのが教会の姿。主のご用のために用いられる恵みを感謝しながら、それに応えて行けるように祈りたいものです。
(5)教会は主イエスキリストの現れを待ち望んでいる人々の集団であります。(7節)
キリスト教信仰では、キリストの現れ、再臨への期待は欠くことができません。イスラエルが長い間、メシアの到来を待ち望んだように、霊的な意味で、祝福に満ちたキリストとの出会いを待つという緊張感の中に教会は存在します。待つことの重要性を忘れてはなりません。待つことは必ず、忍耐とか我慢が伴います。教会が求める平和も、主の到来にかかっているのであって、だから祈って待つのです。わたくしたちは生涯「主イエスキリストよ、おいで下さい」と祈りながら、そのときを待ち、そのときに備えて生きるのが教会の姿です。
(6)教会はキリストとの交わりに招き入れられた人々の集団であります。(9節)
キリストの体である教会は、交わり(コイノニア)の世界。キリストとの交わりは神との交わりでもあります。それ故に、教会の交わりはキリストと共に互いに神の子としての交わりにあずからされています。父と子と聖霊なる神の、三位一体の交わりにわたくしたちも参加させてもらっているということです。教会はこのような聖なる交わりを持つことが具体的な教会のしるしなのです。
新しい年への信仰の歩みが、このような教会の姿を顕著に持った教会への成長の道となるように祈り励んでゆきましょう。