今月の説教要旨
2003年2月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2003年2月2日(被献日説教要旨)

『献げられている恵み』

 本日は教会暦では「被献日」という祝日です。「被献日」というのは、今日の福音書(ルカによる福音書2章22-40節)で読まれたように、幼な子イエスが降誕後40日目に両親によって、宮で「聖なるもの」として献げられたことに基づいて設定された記念日です。

 両親はモーセの律法に従って幼な子イエスを宮に連れてゆき、神に献げたというが、律法では、人間も動物も、最初のものは「聖なるもの」として、神に献げねばならい、とされていたからです。

 旧約聖書に、アブラハムがその子イサクを神への供え物にしたという物語があります。そのときは、アブラハムは神の命令に従って、その子イサクを神への供え物にしようとしました。しかし、神はアブラハムの聖い心を知って、羊を用意し、イサクを殺さなくても良いようにされました。アブラハムのわが子さえ神に献げようとした聖い心を伝えるものです。

 また、サムエルの物語も同様の美しい物語です。母ハンナは不妊で苦しむうえ、第二婦人のペニナには子どもがあり、いつもハンナはペニナに、そのことでいじめられていました。ハンナの長い間の熱烈な祈りに神様がお応えになり、ついにハンナに男の子が与えられました。ハンナは「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」と言って、わが子を生涯、神様に献げる決意をし、夫エルカナ、祭司エリらと共に主を礼拝したと書かれています。そのときの「ハンナの祈り」は、マリアがお腹の中にイエス様が与えられた時に歌った「マリアの賛歌」に並ぶ美しいものです。

 天地宇宙万物を創造された神を信じる時、わが子のみならず、自分の命、この世のもの一切、神様から与えられたものです。それ故に、この世のものすべて、殊に人間は皆、本来神様に祝福されたもの、「聖なるもの」であります。それらを己のものとするのではなく、神様にゆだねる心がいかに大切であるかを教えられます。

 「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)

 「…神は、ほめたたえられますように。」(エフェソの信徒への手紙1章3節)、「輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(同1章6節)

 わたしたちが「聖なるもの」であり、祝福されたものですから、一日一日、わたしたちの一切と生活を、感謝のうちに神様に献げ返して行くこと―それが信仰生活というものでしょう。

 さらにわたしたちはもう一つのことに気づかなければなりません。

 今までしてきたお話はみな「献げる」という趣旨からのものでした。しかし、「献げる」は裏を返せば」「献げられる」ことでもあります。マリアとヨセフが幼な子イエスを「聖なるもの」として献げた話は「被献」という言葉のように「献げられた」ことがポイントになったお話です。アブラハムがイサクを献げた話は、イサクが神様に「献げられた」お話。ハンナがサムエルを生涯神様にゆだねた話は、サムエルがハンナによって、神のものとして神様に「献げられた」お話です。

 わたしたち一人一人も自らを神の生きた供え物として献げる生活をしなければならないという一方で、「献げられている」という側面を忘れてはなりません。

 イエス様は何のために十字架にかかられたのでしょうか。それは、あらゆる欲望に溺れ、罪と弱さと汚れに染まりきったわたしたち人間のために、「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)と十字架上で祈り、ご自分の命と引き替えに、このみじめなわたしたちを、本来の「神のもの」「聖なるもの」「祝福されたもの」として、父なる神に献げるためでありました。わたしたちは神様に「献げられた」のです。

 聖餐式は「奉献」という言葉が示すように、自己を主に「献げる」行為であると共に、イエス様によってわたしたちが「聖なるもの」として父なる神に「捧げられている」出来事でもあるのです。

 「献げられている」恵みを本当に知っている者がまた、真実に「献げる」ことのできる人であることをよく心に覚えたいと思います。