| 今月の説教要旨 2003年4月 |
| 2003年4月6日(大斎節第5主日) |
『贖罪の十字架』
大斎節第5主日は昔から「贖罪(しょくざい)の主日」と呼ばれ、主イエス様の十字架の死による贖(あがな)いの教義を学ぶ主日とされてきました。
本日の特祷を見ますと、「み子イエスは大祭司として来られ……永遠の贖いを全うされました。」という言葉が目につきます。キリスト様は旧約の大祭司になぞらえられ、その大祭司の永遠・究極の役割を果たされ、「至聖所」すなわち十字架で、人類の死と罪を滅ぼし、救いの道を開かれたことを示しています。そして使徒書(『ヘブライ人への手紙』5章1節〜10節)で、真の「大祭司」キリストについて記されています。
そこでまず、旧約の大祭司のことを知らねばなりません。ユダヤには祭司、祭司長、大祭司という聖職が居たようです。その中でも、「大祭司」は特別な存在でした。メルキゼデクは、旧約時代の初期の大祭司で、アブラハムによってその権威と王の権威をも承認された人でした。また、「いと高き神の祭司」と呼ばれ、崇高な位置にある特別な人でありました。
それでは、この「大祭司」とはどのような役割を持っていたかということですが、いろんな職務の中でも、最大の務めは礼拝所の“開かずの間”である「至聖所」に入って、年に一度だけ、人々の罪の赦しを祈り、神に犠牲の供え物を捧げるという大切なものでした。もちろん、ふだんから祭司たちによって礼拝所(聖所)で犠牲の供え物を捧げる礼拝が守られてきたのですが、年一度の大祭司の捧げる犠牲の礼拝は特別で、たいへん重要なものだったようです。これが人々のための最大の清めの式、贖罪の式でした。「贖う」という言葉はもともと、奴隷を買い取り、解放することを意味していましたから、人々の罪を神様に買い取ってもらって自由の中に解放されることを意味していることになります。そういう訳で、キリスト様をこのような「大祭司」になぞらえて、十字架は真の「大祭司」としての行為であったということになります。
さて、罪・汚(けが)れ・苦しみ・弱さというものは、すべての人間が背負っています。今また、世界の平和の秩序を損なう悲しむべきイラク戦争が続いています。戦争している国が、キリスト教国、イスラム教国ということもあり、宗教戦争と見る人もいるでしょうし、“神を信じる人たちが戦争しているのだから、宗教など当てにならない”と考えられたりしますから、私どもはたいへんつらい思いを致します。
しかし、宗教そのものが悪いのではありません。悪いのは人間の心です。人間の間違った心や、主義、主張、思想から、戦争を含めたすべての悪が出てくるのです。つまり、人間の罪、弱さの問題から戦争などの社会悪が生じてくるのです。だからこそ、人間の罪が取り除かれねばならないのです。キリスト様はそのために十字架にかかって死んでくださったのであります。
そうすると、“キリスト様が人間の罪を取り除くために十字架で死に、我々を罪から解放してくださったのなら、もはや戦争や殺人など起こらないはずではないか?”と反論される方もおられるでしょう。いやいや、せっかくここまで神のご計画で、こんな大きな罪の赦しの働きがなされたのに、親の心子知らずで、人はこれを信じず、正しい神の心、神の言葉に正しく耳を傾けないから、このようなことが起こるのです。それが人間の現実の姿であります。ですから、教会でも常に世界平和のために祈られ、世界宗教者会議なども開かれ、さまざまな対応がなされているのです。人はもっともっと神の心を知らねばなりません。
「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」(同・2節)旧約の大祭司もキリストも神に選ばれた者ではありますが、人間としての弱さを自覚されていましたから、「思いやることができる」心を持っておられます。キリスト様、神様の「思いやり」をもっと深く知らねばなりません。
今日の福音書でも、十字架を前にしたキリスト様が、「わたしをこの時から救ってください。」(『ヨハネによる福音者』12章27節)と弱さを漏らしながらも、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(27〜28節)と人への「思いやり」の心を優先しておられます。
このキリスト様は、「一粒の麦は……」(24節)と贖罪の十字架はどうしても成し遂げられねばならないことを語っておられます。今こそ「贖罪の十字架」という聖書の中心的メッセージに耳を傾けるべきではないでしょうか。