| 今月の説教要旨 2003年5月 |
| 2003年5月4日(復活節第3主日) |
『体のよみがえり』
(テキスト=『ルカによる福音書』24章36節〜48節)よみがえりのイエス様は弟子たちのところに現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。生前イエス様は「わたしはあなたがたに平和を残し、わたしの平和を与える。」(『ヨハネによる福音書』14章27節)と遺言されたとおり、復活の主は「平和」を宣言されています。ほんとうに弟子たちの「平和」、世界の「平和」を願うイエス様の愛の言葉にほかなりません。
しかし、弟子たちは復活の主に出会い、「平和があるように」との声を聞いても恐れおののき、亡霊を見ていると思ったと記されています。そこで主は、手足の釘跡をお見せになった上、まだ信じられない弟子たちのために、「ここに何か食べ物があるか」と言われ、差し出された魚を彼らの前で食べられました。いかにも、あの「最後の晩餐」を思い起こさせようとの配慮が見られます。こうして弟子たちは心の目が開かれ、復活の主を信じさせられていったようです。
この記事を読む限り、明らかにイエス様は「復活体」の主イエスの姿を啓示なさっている事実であり、著者ルカも、主の復活が「体のよみがえり」であることを宣言していることが明らかであります。弟子たちは「亡霊」だと思ったようですが、弟子たちの前に現れられたイエス様は、ご自分には「肉も骨もある」と言っておられるように、主の復活は「体のよみがえり」なのです。
私どもは「使徒信経」で「体のよみがえり、限りない命を信じます。」と唱えているように、主の復活を「体のよみがえり」として告白します。
当時の弟子たちにとっても、またわたくしたちにとっても常識では「体のよみがえり」は容易に信じられません。その証拠に、当時も、また後代においても、主の復活を死体盗難説や幻影説などで説明を試みようとしました。殊に、ギリシャ哲学の影響を受けた後代の人々は、肉体と霊魂という二元論によって人間の体を考えたので、肉体が死んで霊魂が残るのだという、いわゆる「霊魂不滅説」に心が囚われたようです。しかし、聖書の主張は、十字架につけられ、死を完全に克服された主イエス様は、神に引き上げられ、時間、空間を越えた栄光の体へと復活させられたことを宣言するものであります。イエス様の復活は、真実に「体のよみがえり」であることを素直に信じ、受け止めたいと思います。
次に、私たちの復活についても考えておかねばなりません。私たちが死んだ場合、火葬場で焼かれて灰になってしまいます。確かに肉体は朽ちてしまいます。死後は魂だけが残るのでしょうか。そうではありません。主を信じるものは永遠に主と共に存在します。
主の十字架の恵みによって、私たちの体も、時間、空間を越えた世界に招き入れられ、キリストの復活の体につながれ、身も心も栄光の体に変えられ、「体のよみがえり」の恵みにあずかるのです。イエス様のようにもはや、地上に「見える姿」としてはよみがえることはできませんが、神の御前に祝福された体として、キリスト様と同様によみがえらされるのであります。私たちも「体のよみがえり」への希望の中に生かされていることを肝に銘じたいと思います。
最後に、この世に生きながらの復活ということについても考えておきましょう。復活の世界は死後の世界のことに限らないからです。
聖パウロも教えているように、私たちの体は罪と汚れと弱さに支配された「死の体」です。生きていても、常にエゴイズムに支配された死んだ体です。しかし、その人間が、主の十字架の赦しを信じ、キリスト様と共に自己に死ぬとき、私たちの体は本当に神に生かされた命、キリスト様と共に栄光の体に変えられた命に生かされた者とされて行きます。
あの有名な「放とう息子」の譬(たと)えでも、死んでいた放とう息子が、悔い改めと父の深い慈愛によって、再び生かされて行きます。これも「体のよみがえり」です。また、「ベン・ハー」の映画でも、復しゅう心に支配された主人公が、キリストの十字架に直面することによって、憎しみや怒りからすっかり解放され、その瞬間、母や妹の重い皮膚病がきれいに消えて行くという奇蹟を体験させられます。これも「体のよみがえり」です。
キリストの復活を記念する聖餐にあずかることによって、キリストの「体のよみがえり」の恵みを受け、栄光の体へと変えられて行く、という体験を受けるのです。この恵みを大切にしない訳にはいきません。