今月の説教要旨
2003年11月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2003年11月2日(聖霊降臨後第21主日)

『神を愛すること』

(テキスト=『マルコによる福音書12章28節〜34節』)

 今日の福音書の記事は、律法学者とイエス様の議論が続いているところです。

 律法学者が「あらゆる掟(おきて)のうちで、どれが第一でしょうか。」(マルコによる福音書12章28節)と尋ねたところ、イエス様は「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の神である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(同29節〜31節)とお応えになりました。旧約の掟・律法は約640ほどあると言われていますが、イエス様はその中で、神を愛すること、隣人を愛することが第一・第二の掟だと言っておられます。

 今日は神を愛することについて考えてみましょう。

 神を愛することと、神を信じることとはほとんど同じ意味だと思います。このイエス様の教えは、明らかに今日の旧約日課(申命記6章4節〜5節)と連動しています。要は、神を愛することが、どんな神の戒めをも代表するということでありましょう。

 『ヨハネの手紙一』で、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(4章10節)、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(4章19節)と書かれています。神の愛があって、わたしたちが神から愛されていることを知り、神を愛することを知った、と言うのです。これはまさに福音の奥義中の奥義です。

 わたしたちは、神を愛すること、神を信じることは、わたしたちの主体的なことと思いますが、神が「まず」わたしたちを愛してくださった。そのことによってわたしたちは愛することを知ったのです。イエス様が、十字架の前に弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネによる福音書15章16節)と教えられたことと相通じるものです。

 「私自身も大学時代に、信仰ということに悩みましたが、信仰とは、自分が神を信じ、愛することだと考えていて、“本当に自分の信仰なのか”と悩んだのです。幼児洗礼で育ったので、悩みは深刻でした。しかし、神から先に選ばれ、愛されていることに目を開かせられ、自己を取り戻され、牧師になることへの決心に導かれました。信仰とは神に愛されていることを知ることなのです。

 最近、暴行・テロなどによる殺人事件の多発はわたしたちの目に余るものがあり、悲しく思います。これからいったいどのような世界になって行くのでしょうか。もっと多くの人間が、一人一人が、神に愛されているということを知っていたら、こんなことは起こらないのではと思います。

 人間はいつも、富や栄誉を求め、きわめて人間的なこと、この世的なことばかり追求し、神様のことなど二の次になってしまいがちです。そのような視点から考えますと、神を愛すること、神を信じることは、人を愛することがむずかしいのと同じように、たいへんむずかしいと言わねばなりません。

 しかし、主イエス様は、あの十字架の極みまで、父なる神を愛し、信じ通されました。「「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書15章34節)と苦しまれたイエス様でありましたが、最後まで、神を信じ、愛し通され、わたしたちに、完全に神を信じ、愛し通す模範の道を備えられたのでした。

 だからこそ、自力では神を愛すること、信じることはむずかしいが、イエス様と一緒に愛し、信じるということを促されているのだと思います。

 主に従い、イエス様と一緒に、というところで、わたしたちは、神を愛し、信じることができるのだということを、心に深く留めたいと思います。