| 今月の説教要旨 2004年2月 |
| 2004年2月1日(顕現後第4主日) |
『不信仰への主の怒りと神の子の権威』
(テキスト=『ルカによる福音書4章21節〜32節』)今朝の福音書は先週の続きですが、ガリラヤ伝道を開始され、一区切りついたとき、故郷ナザレに帰り、会堂で聖書を朗読し、権威ある教えをなさった。それに対する故郷の人々の反応と主イエス様の態度を今朝の福音書は示しています。
マルコによる福音書(6章1節〜6節)、マタイによる福音書(13章53節〜58節)の並行記事では、会堂であまりに権威ある教えをされたイエス様の姿と、小さい頃から見てきたイエスの姿とイメージが合わず、人々は躓(つまず)いたのです。
「この人は大工ではないか。」(マルコによる福音書)
「この人は大工の息子ではないか。」(マタイによる福音書)そこでイエス様は、この彼らの不信仰に驚き、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」と言って、そこではほとんど奇蹟も行われませんでした。
ルカの記事では、さらにナザレの人々の不信仰さについて強調してイエス様は語っておられます。「この人はヨセフの子ではないか。」は「大工ではないか。」「大工の息子ではないか。」と実質的に同じです。
小さい頃からイエスを見て知っているので、イエス様を人間的な目でしか見ることができず、神の子・イエスの姿とのギャップのため、その主を受け容れられないのでしょう。「預言者は自分の故郷では歓迎されない。」は、このナザレの人々の不信仰の様子を表現したものです。
その一方で、彼らはイエス様に、超能力を期待するナザレの人々の姿もあります。彼らも、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ。」と思っていることをイエス様は見抜いておられます。彼らは、カファルナウムでイエス様が数々の病人をいやしたりなさった奇蹟をナザレでもやって見せてくれと言っているのです。
あの有名な「荒野の誘惑」の記事が思い出されます。「石ころをパンに変えてみよ。」と悪魔が神の子として活動される直前のイエス様を試みました。“奇蹟を見たら信じてやろう”という心が見え見えで、要するにイエス様の神の子の権威といわゆる超能力を勘違いしてそれを要求しているのです。
このように読んでゆきますと、なんだか、政治家と故郷の関係を思い起こしてしまいます。選挙の票になるように各政治家は、自分の郷里のために有利なように働き、郷里の人々もそれを期待します。政治家は故郷で敬われますが、故郷の人々は、出身の政治家に地元に有益なことをしてくれることを期待します。ナザレの人々も、自らの利益を求め、「カファルナウムでしたことをここでもしてくれ。」と貪欲に言っているようにも思います。
このようなナザレの人々の反応と不信仰に対してイエス様の怒りが爆発します。予言書エリヤ、エリシャの例を引いて、不信仰なイスラエルには神の恵みが表されないで、彼らが嫌っている異邦人に表された事実を語られました。まるでイエス様がナザレの人々にわざわざケンカを売っているようにも見えますが、あまりにもイエス様に対して人間的な見方しかしないで、神の子イエスを素直に受け容れないことに対して、イエス様の怒りが示されています。
こうなると、神の子イエスと人間的ナザレの人々と対決となるのは必至です。ナザレの人々は腹を立て、イエス様を崖から突き落とそうとしましたが、イエス様はうまく抜け出し立ち去られ、その後再び、ガリラヤのカファルナウムで伝道されたようです。
著者ルカは、マルコ、マタイと違って、この記事を伝道活動記録の最初の方に置いていることは注目に価する点で、ルカの意図としては、もうこんな初期から、十字架の影がイエスに差しかかっていることを伝えようとしているのかも知れません、
わたくしたちも、人間的なイエスを見るのではなく、神の子イエス様の真の権威を素直に受け容れてゆかなければなりません。人間的な欲望に支配されることなく、主のみ言(ことば)と権威に支配された人間として成長して行かなければならないということでしょう。
最近耳にした言葉ですが、「病気は医者に、命は神に。」とは含蓄のある素敵な言葉だなあと思いました。主に何を求めるべきかを考えさせられます。