今月の説教要旨
2004年3月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2004年3月7日(大斎節第2主日)

『神のご計画の中に生きること』

(テキスト=『ルカによる福音書13章31節〜35節』)

 ここでのお話は22節で明らかなように、イエス様がエルサレムでの十字架に向かって進んで行かれる途中でのことです。何の企みか、ユダヤ教のお偉いさん数人が、ヘロデ王(狐)によるイエス暗殺をほのめかしつつ、イエス様のエルサレム入りを阻止しようとしたようですが、彼らにイエス様は毅然たるエルサレム行きの心を表しておられます。

 第一に、唯々、神のご計画性の中で生き、エルサレムに向かって進んで行かれるイエス様の姿を想像しましょう。「わたしは今日も明日も……自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の場所で死ぬことは、あり得ないからだ。」(33節)という主の言葉から、明らかに神のご計画として、エルサレム(十字架)への道を「自分の道」として進み行かねばならないというイエス様の強い自覚を読みとることができます。

 イエス様は、その誕生から死に至るまで、神のご計画の中で、神の子・救い主として生まれ、福音をのべ伝え、人類の救いのために十字架で死んで行かれました。そして、その神のご計画は旧約イザヤ書に示された「苦難の僕」の道であり、また、祈りの度に父なる神から示された道でもありました。イエス様は徹頭徹尾、神のご計画の中で生き、そして同じ神のご計画の中で十字架の死を受けられたのでした。四月から転勤される全国の教役者の方々が、今朝の礼拝でこの福音書をどんな気持で朗読されているかと、わたくしも改めて緊張感を抱きます。

 神のご計画の中に生きることは、教会の大きな特性ではないでしょうか。聖職、信徒一人一人に与えられた使命、神から与えられた道があります。聖職も信徒も、その生涯、誕生から死に至るまで、神から与えられた道として、神のご計画として受け入れて生きて行くこと――それが教会の特性であります。喜びも苦しみもある生涯、人生の中で、喜びとともに幾多の十字架(苦難)を背負わねばなりません。33節の言葉は「わたしの父は今も働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネによる福音書5章17節)にも相通じるものです。

 神ご自身も人類の救いのため、自らのご計画のもとに働いておられ、またイエス様もその故に神のご計画の中に生き、宣教のために働いていてくださいます。わたくしたちも、神のご計画を信じ、イエス様と共に生きているかに思いを馳せましょう。

 第二に、神の都エルサレムに対する痛切な愛の心をもって嘆かれたイエス様の姿を黙想しましょう。「エルサレム、エルサレム……お前の子らを何度集めようとしたことか。」(34節)

 旧約の預言者も主イエス様も、エルサレムの人々(ユダヤ人)に終止、神への立ち帰りを説きましたが、彼らは主を受け入れませんでした。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネによる福音書1章11節)とあるとおりです。イエス様は十字架を間近に迎えてエルサレムに辿り着いたとき、もう一度、嘆きの言葉を吐露されました。「イエスはその都のために泣いて言われた。『もし、この日にお前も平和への道をわきまえていたなら……。』」(ルカによる福音書19章41節〜42節)

 神は愛であります。そして、イエス様もこの世(エルサレム)を愛されました。イエス様は民に愛をもって神の訪れを告げられましたが、民は受け入れようとしませんでした。その神とイエス様の愛に応えられなかったエルサレムに対して悲痛な嘆きの声を発せられたのでした。

 結局、「見よ、お前たちの家は見捨てられる。」(35節)という言葉をもって、エルサレム滅亡を預言されています。(実際、紀元70年、エルサレムはローマ軍の攻撃によって、神殿が破壊され、エルサレムは滅亡しました。)このエルサレム滅亡も、結局は神のご計画の中にあることだったのでしょう。

 エルサレムへのイエス様の嘆きと語りかけは、今のわたくしたちの世界人類に向けてのものであることは誰しも否定できないでしょう。イエス様は今も悲痛な愛をもってわたくしたちを見守り、語り続けてくださっています。わたくしたちも、この深い、神とイエス様の愛の心に応じているかどうかに、厳粛に心を馳せたいと思います。