| 今月の説教要旨 2004年5月 |
| 2004年5月2日(復活節第四主日) |
『知られていることを知る喜び』
(テキスト=『ヨハネによる福音書10章22節〜30節』)今朝の福音書は「わたしは良い羊飼いである」の教えに続く部分の記事です。文語祈祷書のときは「良い羊飼い」の記事が復活後第二主日に読まれ、「良き羊飼いの主日」と呼ばれ、良い羊飼い(聖職)を送り出す神学校のための代祷日としてきましたが、新祈祷書になってからは復活節第四主日に移されています。「良い羊飼い」の記事もB年日課、A年C年はその前後記事が日課となっています。
今日の記事で一番目に着くのは「神殿奉献記念祭」ですが、少し説明を加えねばなりません。
紀元前168年〜37年頃、ユダヤはシリアに占領されていましたが、シリアのアンティオカス四世がエジプトに遠征した帰りに、ユダヤを荒らし、各地の神殿を破壊、おまけに、ユダヤの人々に偶像礼拝を強制しました。
日本もかつて、アジアで同じようなことをして人々を苦しめました。宗教・信仰は、人間にとって「最後の砦」的な世界です。従って、この世界を侵されたりすることは最大の侮辱・苦痛です。ですから、ユダヤ人の多くはこれに反抗しました。
この反抗グループを統率したのが、あの有名なハスモン家のマッタティアという人でした。そして彼は反乱軍を起こし、シリア軍と勇敢に戦い勝利を収めました。彼の死後は、あのユダヤ・マッカバイオスが後を引き継ぎ、各地の神殿を回復、神殿礼拝を再興しました。
「神殿奉献記念祭」は、これを記念する祭りです。そういう舞台で、ユダヤ人たちがイエス様に詰め寄り、「もしメシア(救い主)なら、はっきりそう言いなさい。」(24節)と問い正したのです。彼らはイエス様がメシアであることの確信を持てなかったからでしょう。なせでしょう?
彼らのメシアのイメージの中に、あのハスモン家の戦士の姿があったからに違いありません。イエス様の弟子たちでさえ、イエス様に対して間違ったメシア像を期待しました。彼らもあまりにも自分で描いたメシア像でイエス様を求めたのでしょう。
羊と羊飼いの関係は、互いに相手を「知っている」ことで成り立っています。「知る」ことは「愛する」ことでもあります。
「知る」領域はいろいろあります。知識において、経験において、感覚において、等々。人間関係でも、親は子供のことをどれだけ知っているか、夫は妻のことをどれだけ知っているか。その逆も同じです。それらの関係は「愛する」ことによって「知る」ということが成立している関係ではないでしょうか
ユダヤ人たちは律法を守ることに忠実であっても「愛する」心に欠けていたので、イエス様をメシアとして「知る」ことができなかったのではないでしょうか。羊は羊飼いに「愛されている」ことを知っています。「知られている」ことを知っています。なのに、ユダヤ人たちは、イエス様に、神様に愛されていることによって「知られている」ことを知らなかったのでした。
このように、イエス様は神様とわたくしたち人間の関係を羊飼いと羊の関係をお示しになっているのです。わたくしたちは、父なる神、子なる神イエス様に、こよなく愛され、知られていることを知っているか否かによって、大きな希望と喜びの中に生きられるかどうかも決まってくるのではないかと思うのです。「知られている」ことは「愛されている」ことですから…。「知られている」ことを「知る」喜びという特権を深く味わいつつ、「良い羊」たちでありたいと思います。