今月の説教要旨
2004年7月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2004年7月4日(聖霊降臨後第五主日)

『主によらなければ…』

(テキスト=『特祷(特定9)』)

 本日の特祷(特定9)で、「わたしたちは主に寄らなければ、何一つ良いことはできません。」と祈っていることに目を向け、心を傾けたいと思います。

 わたしたちは様々な機会に「主の導き」「主のみ助け」を祈ります。それは教会の信仰の根幹だからでしょう。言い換えますと、本当に主によらなければ何もできない人間であるという聖書の人間観と、主は「全能の神」、「神はできないことが何一つない。」という聖書の神観によって、教会の信仰が支えられているということです。

 主によらなければわたしたちは生きることもできないし、病気や多くの苦難に打ち克つこともできません。主によらなければ、悪と戦い、心の平安も得ることができません。教会とても同じことで、主によらなければ、神と隣人を愛し、平和を造り出して行くこともできませんから、そのための宣教・奉仕の働きも何一つできないのですし、教会の信仰すら守ることができないのです。

 聖霊降臨後の期節だけでも、これらのことを表す特祷が少なくとも6回あります。

 「人は弱いものであり、あなたに頼らなければどのような良いこともできません。」(特定1)

 「あなたに寄らなければ強くまた清いものはありません。」(特定4)

 「み民がまことと賛美の礼拝を献(ささ)げられるのは、ただあなたのみ恵みによります。」(特定13)

 「人間ははかないものであり、あなたに頼らなければ倒れてしまうほかありません。」(特定15)

 「教会はただ主の助けによってのみ健全に立つことができます。」(特定16)

 「あなたに寄らなければ、わたしたちはみ心にかなうことができません。」(特定19)

 これらのことを理解するためには、わたしたち人間は「弱い」ということを心から自覚することから始めねばなりません。人間は、富や名誉や支配を追い求め、殊に、金さえあれば何でもできるし、幸福に生きて行けると思い込んでいる人たちが多いのです。そして彼らは、自分の力を過信し、神の声に耳を傾けようともしない傲慢な人間です。

 アダムとイブが蛇の誘惑に負けて神に背き、その結果、ノアの箱舟やバベルの塔の物語のように、多くの人間が滅び、苦難を背負うことになりました。現代においても、世界の様子や日本社会の世相を見ても、同じことが繰り返されているとはいえないでしょうか。新約聖書にも登場するユダヤ教の人々で、イエス様と対立した人々も同じでした。律法を守れるとうぬぼれ、自力で律法を守ることによって救われると考えていた人々でした。自らの弱さに気づかず、高慢な人間となり、神の子イエスを十字架にまでかけて殺してしまったのです。律法は人間の弱さを映し出してくれる鏡であるのに、その鏡を正しく使うことを知りませんでした。

 人間は弱いものであるため、「神を愛し、隣人を愛せよ」という律法を守ることができません。愛するということほど、主の助け無しでできないものはありません。愛とは決して生易しいものではありません。人間の愛の心など、逆に人間のエゴイズム(自己中心主義)の心の裏に隠れてしまうほどのものです。

 そして、この人間の「弱さ」は人間の「罪」であり、自力では取り除くことができないため、イエス様は人間の「弱さ」を十字架に釘付けし、その復活によって人間を、この「弱さ」から解放してくださったのであります。その主と共に、わたしたちは神と人とを愛することのできる世界へと再び招き入れられています。「主の助けによって」生きる者へと招かれたのです。

 弱いわたしたち人間には、どうしても「主の助け」が必要です。イエス様でさえ、常に父なる神の助けを祈りつつ、その生涯を歩まれました。わたしたちも、自己の「弱さ」を正しく知り、主の助けを熱心に求める者となり、真に謙遜な人間としての信仰生活を歩んで行きましょう。