今月の説教要旨
2004年9月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2004年9月5日(聖霊降臨後第十四主日)

『キリストに従うことの厳しさ』

(テキスト=『ルカによる福音書』第14章25〜33節)

 この福音書の記事では、キリストの<弟子になる条件>がテーマとなっていますが、わたくしたち信者に対しても教えられる厳しい信仰の道が語られているものです。要するに、「神の国」に入れられることへの「厳しさ」が強調されています。

 野球選手にも「おいしいところ取り」ばかりする奴がいて、よく腹が立つことがあります。裏を返せば、チャンスに強い選手とも言えるのかも知れないが、信仰生活においては、「おいしいところ取り」ばかり狙っていては駄目だということでしょう。

 「神の国」は誰にも門戸が開かれているものの、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイによる福音書第22章14節)、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコによる福音書第10章31節)等という厳しい教えもたくさん出てきます。

 中でも、今朝の福音書の「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。」(同26節)、「同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない。」(同33節)は滅茶苦茶厳しい言葉です。

 ずいぶん前から社会問題になっているある団体では、文字通り、父母、兄弟、家族を捨てよ、家族はサタン(悪魔)であると説き、つかまえた人を家族から隔離させ、洗脳します。

 果たしてイエス様はそんな恐ろしいことを語っておられるのでしょうか。

 イエス様に従おうとした人が、「主よ、先ず、父を葬りに行かせてください。」(マタイによる福音書第8章21節)と言ったら、イエス様は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(同22節)と、いかにも非情な厳しいことを言われました。

 このように、「神の国」に入れられる道、永遠の命を頂く道、イエス様に従う道、信仰の道の厳しさを極端な言葉で教えておられるのです。弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか。」(マタイによる福音書第19章25節)といった気持はわたくしたちも同じでしょう。

 これらような主の命令は、<自分の十字架を背負う>(ルカによる福音書第9章:23節)ことと同じです。もしわたくしたちもそのような命令を受けたら、大きな悩み・苦しみとなるでしょう。しかし、その苦しみの十字架を、イエス様の十字架として負いつつ従えという意味で、本当に神の国に入れられることの厳しさがあるという訳です。

 また、わたくしたちは常に家族、財産、自分の生活など、<この世>への執着心があります。そして、<あの世>(信仰の世界)のことに対して<いい加減さ><安易さ>を露呈してしまいます。主に従いきれないため、本当の神の恵み、永遠の命を得られなくしてしまっていると言えます。

 この記事の二つの譬えでも教えているように、神の道にはいるにも、ぞれなりの<熟慮>と<計算>を必要としています。<命>に係わる世界のことだから、決して安易に考えてはならないと言うことであります。<この世のもの>との訣別・放棄を覚悟しなければなりません。「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。」(テモテの手紙2第6章7節)

 主はどうして、こんな教えを人気をはくしている<群衆>の前で話されたのでしょう? この群衆はイエス様のエルサレム入城の時、「万歳」(ホサナ)を歓呼します。しかし、イエス様が捕らえられると、みんなイエス様を見捨てます。あの強がりのペトロさえ、イエス様に従いきれませんでした。やはり、その信仰にどこか<安易さ><軟弱さ><誤解>があったのでしょうか。

 わたくしたちはイエス様に従おうとしている者たちです。神様の恵みの<おいしいところ取り>だけを狙うものであってはなりません。<熟慮>や<計算>もそれなりのものを持つことを教えられています。<感謝、感謝>だけではなく、真剣さと忠実さも要求されています。<福音>と共に<警告>も受け止め、忠実な信仰を養いましょう。